ぼくはスカート?

 今朝の朝日新聞社会面。《ぼくはスカートがいい》と題した記事が載っている。中学3年生男子の女装の話だった。彼は小学5年の時にミュージカルで女の子役をやってスカートをはいたことで、スカートが涼しいことに気がつき、自宅ではスカートで過ごすようになった。中学校に入って、男子のスカート着用は校則で認められていなかったので、ジャージーで過ごしていたが、翌年度に校則の改正があって男子のスカート着用が認められた。現在、そのスカートを履きたい男子は髪の毛も伸ばして見た目は女子生徒になりきっている。その写真も朝日新聞は載せている。

 さて、問題を呈したい。この女装男子、記事を読む限りトランスジェンダーではなさそうだ。切っ掛けはともかくも、女装をしたい男ということである。これは「トランスヴェスタイト」(服装倒錯)という範疇に入る。違った言い方をすれば、クロスドレッサー(異性装)ということで、記事を読む限り中身は男だ。そうするとどうなるかということなのだが、肩よりも長いロングヘアーでスカートを履いている人物がトイレに行く時にどうするかということである。見た目は女子トイレに入るのが自然だが、中身は、女子に興味が出まくっている年頃の男子なので、これを女子生徒が許容すべきか?ということ。そして、体の性は男だから、男子トイレに入るのかというと、これも例えばワシャが男子トイレで用足しをしているときに女子生徒(見た目だけでも)が入ってきたら「ドキッ!」としてしまう。オシッコも途中で止まってしまうかもしれない。

 自由を履き違えてはいけない。少なくとも中学校と言うところは、子供に「社会生活」の基礎を教える場でもある。ある程度の規律、不自由さがあってしかるべきだ。「僕がそう思ったから自由にしていいのだ」と主張し勝手にふるまえば、それはそのまま「社会生活の秩序を乱す」ということなのだ。それを学ばせる場所が中学校ではないのか。

 異性装でも服装倒錯でも、社会人になって自分で責任が取れるようになってからやっても遅くはないだろう。

 この異性装男子の母親は言う。

「何かを隠したら、自分が恥ずかしい人間だと思ってしまう。だから隠さず、否定もしません」

 おいおい、これって「宗教2世」の問題とよく似ていないかい?この母親があったから、この異性装男子が育ってしまったんでしょうね。

 隠しごとなんか、子供だって大人だって山ほど持ちながら生きている。そんなことも自覚していない親に育てられるとは・・・。

 小学5年の時、女の子役をやらせたのがこの母親で、さらに「涼しいからスカートを履きたい。スカートでコンビニに行きたい」と言い出した時に、「半ズボンでも涼しいよ」とは言わず、行かせてしまったのもこの人だ。「社会」というものより「個人」を優先した考え方が母親にあったのではないか。

 記事中にこうある。

《他の男子と見た目は少し違う。でも周囲はいつもと同じように接してくれている。》

 違うな。周囲がこの異性装男子にどれほどの気を使っていることか。「ゲッ」と思っても、それを表に出すと「LGBT」を声高に叫ぶ大人たちに虐められかねない。とくに異性装男子の母親は要注意だ。だから異性装男子に接する時の発言には、もっと自由にフランクに話したい中学生が、自分の言葉に規制をかけて配慮しているに違いない。ワシャが同級生なら間違いなくそうなる。変な奴に「変」ということができない不自由な社会、それが朝日新聞の社会面で顕在化されている。

 異性装とは違う「トランスジェンダー」だが、この「性自認」を許容するという考え方はきわめて危険だと思っている。そのことが最近になってようやく問題視され始めたことは歓迎したい。

「私は女よ」とさえ自認すれば、筋骨隆々の毛むくじゃらの男が、女子トイレに入ってきて、太い何をしごいていても許される社会というのはあきらかに異常だ。