解りやすさ

《「所管する→管理する」“お役所言葉”を使わない市民向け文書マニュアルを三重・松阪市が作成…理由と反響を聞いた》

https://news.yahoo.co.jp/articles/60e3b18316992e52226df6e423e9408e20c2a63b

 ワシャは“お役所言葉”にはけっこう詳しい(笑)。

 役所に行くと「所管課はどこ?」などと尋ねることもある。これを「管理している課はどこ?」とは訊かない。管理課とか維持管理課いう課があるところもあって、まどろっこしいのだ。所管課とか維持所管課って聞いたことないから、実は「所管はどこの課ですか?」と訊くのが正しい。松阪市の「文書マニュアル」に依れば「所管」の言い換えに「担当する」もあって、「担当する課はどこですか?」なら現実に使っている。

 厳密に言うと「所管」と「担当」は類語ではない。「所管」は「つかさどる」系で、「担当」は「になう」系に分類されている。役所の場合だと「所管」のほうが言葉としてもしっくりとくるのではないか。それに「所管」ってそんなに難しい言葉だろうか?普通の日本語だと思うけどね。

 見出しの例には突っ込んだけれど、この松阪市の対応については賛成だ。

○命令調・否定形の表現は避ける

○漢字を続けるのは避ける

○法令用語・専門用語は、わかりやすいことばに言い換える

カタカナ語は注意して使う

○略語はなるべく使わない

○体言止めは多用しない

 などなど、改善すればとても解りやすくなる。

 でもね、愛知県安城市ではこの流れに逆流しているんですぞ(笑)。ある課の名前を「ケンサチ=SDGs課」に変更してしまった。

 さて、この課は何を所管するところでしょうか?「SDGs」が付いているんで「SDGs」は担当しているんでしょうね。でも、「SDGs」が略語であり、それがお年寄りを中心に、あまり浸透していない。多くの人が目にはしているとは思うが、それが何って明確に説明できる人がどれほどいるだろう。

「Sustainable Development Goals」(サスティナブル デベロップメント ゴールズ)これを略して「SDGs」。読み方はエスディージーエスエスディージース?エスディージーズ?エスディージー小さいエス

 英語を略し、その略語を読ませる。流行に乗りたいというすけべ心は透けて見えるが、自治体としての知性がまったく感じられない。市民によく解らない名前をつけて嬉々としているってバカの典型と言っていい。

 さらに追い打ちをかけるのが「ケンサチ」である。これは日本語ですらない。安城市役所だけで通用する造語である。「ケンサチ」は「健やか」と「幸せ」をつないだ「健幸」ということで、これが「SDGs」と「=」で結ばれているという珍妙なネーミングだ(笑)。

 すでに「SDGs」の欺瞞性については、生物学者池田清彦先生が『SDGsの大嘘』(宝島新書)で問題提起をしておられる。

《SDGsというのは、日本を凋落に導いていくものだと言ってもいい。「明るい未来をつくるため」という名目のもとに推し進められている“素晴らしい目標”が、実はまったく正反対の結末を招く。》

 そしてヨーロッパの諺を引き警告を発する。

「地獄への道は善意で敷き詰められている」

 先生はさらに言う。

《「よりよい未来をつくりましょう」と言われて、反対できる人間なんてまずいない。》しかし《利益を得るのはほんの一握りの連中だけで、世界のほとんどの人たちは利益を奪われて貧しくなる。》日本はというと《国連が垂れ流すこの「嘘」を鵜呑みにした政府やマスコミの大キャンペーンのせいで、ほとんどの人々はSDGsというのは素晴らしいものなのだと信じて疑わず、その目標に少しでも貢献できるように頑張っている。》そしてこう結論づける。

《人々の「いいことをしたい」という善意につけ込んで、騙しているという意味では、かなり悪質だ。》

 数年前だったか、ワシャも「SDGs」なる言葉を初めて耳にし、そこに「サスティナブル」という言葉が含まれていることに嫌なものを感じた。その後、「SDGs」に憑りつかれた人間と話をする機会があって、「ああ、やっぱり予感が当たった」と思ったものである。その後、池田先生や武田邦彦先生の著作などで、確信を深めた。

「偽善に敷き詰められた道」を嬉々として走り続けるお役所。そこに所管されている住民の悲しさは如何ばかりであろうか。

 解りやすさを目指している松阪市には、陳腐な上に偽善的なネーミングの課はない。うらやましいなぁ。