安祥について

 1月8日の日記「安城松平家発祥の地」

https://warusyawa.hateblo.jp/entry/2023/01/08/102357

に、『歴史人』2月号のタイトル脇の文章《司馬遼太郎いわく“安城”という地は「徳川家にあっては、これはただの地名ではなく、名誉と自負心と忠誠心を象徴する神聖語」であるという。》に触れて、「大乗寺で住職が話をした時に司馬さんの言葉として示された。ここでは『覇王の家』が出典とあるから、昨日から『覇王の家』を確認しているのだが、見つからなかった」と書いた。

 でね、調べたらありました。司馬フリークも大したことはない(反省)。ただ、言い回しが若干違う。

《安祥とは、この稿のはじめのころ、何度か触れたかもしれないが、むろん地名である。三河国碧海郡(あおみごおり)安祥。今は愛知県安城市という。しかしながら徳川家にあっては、これはただの地名ではなく、名誉と自負心と忠誠心を象徴する神聖語というにちかい。》

 これが正確な司馬さんの言葉だ。

 司馬さんが『覇王の家』を執筆されていた頃、安祥城は「安祥」と言われていた。しかしその後、研究が進み現在では「安城城」、「安城譜代」というのが説として支持されている。ワシャは「安祥城」の呼称が好きなのだが、全体の流れなどは「安城」になってきた。

 司馬さんの文章を続けたい。司馬さんは「地理的安祥」と「社会的安祥」に分けてこう言っている。

《その地理的説明をすれば、いまの愛知県は旧分国では西半分が尾張国、東半分が三河国にわかれる。三河は山が多いが、尾張は野である。が、三河でも尾張に接する碧海郡のみは一郡がひろびろとした田園であり、大小の川の水量はゆたかで水田に適し、慶長の検地ではこの郡の米の収穫量が七万八千五石もあった。安祥は、その富裕な水田地帯の首邑である。》

「社会的安祥」については、三河衆の原型を、ジンギスカンに率いられたモンゴル人、清帝国をつくった女真族に求めている。

《家康のこの時期より一世紀前、碧海郡安祥城を松平氏が手に入れたときが、この家の飛躍の時期であったであろう。》

 家康から6代前の信光の時代である。続ける。

《それまでの松平氏は、その家系をいかに潤色――たとえば源氏の流れといったふうに――しようとも、その実質は狩猟・林業民の親方であり、あるいは蛮族の酋長、もしくは剽盗団の首領であったといっていい。》

 でました。司馬さんの三河落としが(笑)。「狩猟・林業民の親方」、「蛮族の酋長」、「剽盗団の首領」って、松平一党はそんなものだと言っている。実は、ワシャもそう思っているんですね。

 これはなにも司馬さんの影響を受けたというわけではなく、三河に住んでいて、子供の頃から徳川発祥の地といわれる「松平郷」や二代泰親が進出した「岩津」、三代信光(家康からいうと6代前)が奪取した「安城」などを見分していると「親方、酋長、首領」などの呼称がよく似合いそうだと思っていた。信光から5代目の七代清康までの間、安城で力をたくわえた松平家は「安城譜代」というモンゴル人のような(笑)偏屈だが純朴で屈強な三河衆に支えられ岡崎に進出する。この時、清康14歳(以下年齢は数え)。

 しかし岡崎に移って10年ほどで清康は家臣にあっけなく殺され、父の死後、息子広忠は三河、伊勢、遠江などを転々として岡崎にもどったのは12歳。広忠もまた24歳という若さで刺客により暗殺される。

 家康はというと、この1年半ほど前に織田方に売られてしまっている。6歳である。8歳の時に人質交換で駿府に移送され、正式に家康が岡崎に戻るのは19歳になってからである。実に13年も岡崎を離れていた。岡崎にもどって8年後には浜松城に移り、駿府城江戸城と東に転出して岡崎には戻っていない。

 家として考えると、モンゴル衆に支えられた安城五代の時代は重みを増すと思うのだが、いかがであろうか。  どうも、司馬作品、徳川家康に関することになると長くなってしまうが、最後に『覇王の家』の巻末にある三河衆についての一文を記して、今日のところは終わっておきたい。

《元来、三河人は閉鎖的な郷土意識がつよく、また離合集散が常のようにしておこなわれるこの戦国にあってまるで鎌倉期の御家人の郎党たちのように主家への忠誠心がつよく、功利性が薄いが、その反面、風通しがわるく、よく結束した集団にありがちな陰湿な影が濃い。この種の姑息さと暗さは、ついには徳川期の政治的体質にまでつながるかのようである》

 徳川期の政治的体質は、よきにつけ悪しきにつけ、その後の近代・現代にいたる政治的体質に大きな影響を与えていると思っている。