家康創業期の家臣団

 宝島社のガイドブックを参考にして「どうする家康」の家臣団の出身地を紹介したい。

 18ページに「登場人物」が俳優名、写真とともに並べてある。まず右肩は榊原康政杉野遥亮)。康政は豊田JCTのすぐ南の集落から出ている。『寛政重修諸家譜』に依れば《天文十七年三河國上野に生る》とある。

 本多忠勝山田裕貴)である。生涯、戦に明け暮れたがついに一度も手傷を負わなかったという最強の戦士。安城譜代で、生れは岩津天神の南の西蔵前。祖父も父も安祥城合戦に何度も従軍して、どちらも安城の地で戦死をしている。

 石川数正松重豊)。家康の重臣中の重臣で、もちろん安城譜代なのだが、のちに秀吉に走り、数正の息子の代に廃絶されてしまった。ワシャ的には家康の臣僚の中ではもっとも好感のもてる武将だと思っている。その他の家臣どもはどうも三河臭くてね(笑)。数正、小川城(安城市)に生まれている。

 酒井忠次大森南朋)。安城譜代。数正とともに家康の2巨頭。築山殿を信長に売ってしまったことで、少し評判が悪い。岡崎北高校の北の井田町に生を受ける。

 大久保忠世小手伸也)。安城譜代。三河一向一揆では家康がたに残って奮戦する。その後の数々の合戦でも猛将ぶりを発揮し、信長にも秀吉にも高く評価されている。上和田城(岡崎)に生まれている。

 ワシャが岡崎のブックオフにいく道すがらに上和田城跡があって、幹線道路沿に大きな碑が立っている。まさにそこに忠世はいた。

 鳥居忠吉イッセー尾形)、鳥居元忠音尾琢真)。碧海郡矢作庄を収める譜代の親子である。生まれも同郷。実直な親子で忠吉は、わずかな兵糧を溜め続け、元康(家康)の三河帰参の蓄えをした男。子の元忠は関ヶ原の合戦伏見城を守り、落城を見て切腹した律義な侍だった。

 渡辺守綱木村昴)。槍の半蔵と言われた豪の人。ただ、実直な(応用力のない)三河人の典型ですな。三河一向一揆では信仰にあらがえず門徒側について家康にたてついた。おそらくこの時のことがなければ尾張徳川家の付家老などという閑職ではなく、どこかで大名になっていたはずである。矢作川の東岸浦部(岡崎)の出身。

 夏目広次(甲本雅裕)。幡豆郡豊坂(幸田町)に生まれる。この人も一向宗側について出世が遠回りすることになる。

 本多忠真(浪岡一喜)。本多忠勝の叔父。小川城(安城)に生まれる。安祥合戦に従軍し父と兄を失う。もちろん安城譜代。三河一向一揆では家康がた。本家の忠勝を補佐して連戦し、三方ケ原の合戦で敗走する家康を助けるため殿をつとめて討ち死にしている。もちろん生き残っていれば大名になっていたことは間違いない。

 平岩親吉(岡部大)。額田郡坂崎(幸田町)に生まれる。おそらく家臣中最も家康の信頼を得ていたのが、この人であろう。その性格は誠実にして実直、表裏なきことは、他の何を考えているのか判らない三河者とは一線を画している。この人、10万石まで累進するが子供には恵まれず、親吉は遺言で所領を尾張徳川家に返納してしまう。生涯、家康に仕え、家康に先立つ時、全てを家康に返して逝ってしまう。欲の強い三河武士にあって異色といえば異色な存在であった。

 本多正信(松山ケンイチ)。安城譜代。武功者というより、家康の参謀を生涯の仕事とした。この人なくば徳川三百年はなかったかもしれない。

 上記のように前半に登場する家臣団を見ても、6人は明確に安城譜代である。鳥居、渡辺、夏目、平岩あたりが苗字から言って、岡崎譜代。

 榊原はあるいは安城譜代かもしれない。もう少し気合を入れて調べれば、はっきり言えるのだが、朝のちょこちょこっとした時間内ではここらでお許しいただきたい。

 いやはや、昨日は朝一番で、安城市への嫌味を書いたんだけど、忙しくてアップするのを忘れておりました。しかし、今日は今日でこうやって調べてみると、「どうする家康」の前半戦は「安城譜代」が活躍することが確実である・・・って言うか、そんなもの家康の歴史をちょいとかじっていれば、自明の理だと思うのだが、どうもトップあたりが鈍感だとどうしようもないわさ。

 岡崎の100分の1の予算で、どうする安城市。せっかくの安城譜代も腐ってしまうぞ。