今日のタイトルは「くうせい」と読みます。おそらく初めて聞く方も多いと思いますが、けっこう、地元では有名なんですよ。いや、そんなこともないか(笑)。
空誓、戦国時代 の浄土真宗の僧侶である。本證寺(安城市野寺町)第十代住職で、蓮如の孫ともいわれている人物である。真宗中興の祖の蓮如さんは有名ですよね。この空誓が、徳川家康を苦しめた三河一向一揆の中心人物なのである。
空誓の話に入る前に「三河一向一揆」について触れたいと思う。この事件は、家康が三河統治を開始した当初に直面した最大の危機であり、「どうする家康」ネタとしては絶対にはずせないものであろう。
しかし、歴史の教科書でもそうなんだけど、三河で起きた「一向一揆」という扱いがされている。でもね、地元の歴史好きから言わせてもらうと、「一向一揆」で片づけられる程度の事件ではなかったというのが本質だと思う。
そもそも、この家康創業期の最大の危機は、松平創業史である『松平記』が大元で、その後に著された『寛永諸家図伝』、『三河物語』、『参州一向宗乱記』に踏襲されたものと『新編安城市史』に記載されている。
でね、これも市史からの引用なんだけど、大元の『松平記』では《一揆の骨格を「家康対三河本願寺教団の戦い」としながらも、実態としては、家康家臣団の分裂と相互の葛藤》とし、実態としては、「三河一向一揆」と呼びながらも、実態としては「一向一揆」としての態をなしていなかった・・・と言っている。
つまり、単純に言えば、家康創業期最大の危機は「一向一揆」ではなく、松平家の内紛が拡大したものであり、それは松平(徳川)家存亡の危機であったと解釈できる。
とはいえ、本願寺門徒の果たした役割は大きく、本證寺城ともいえる城郭伽藍の主である空誓の存在は際立っている。
『松平記』では、家康配下の侍が上宮寺(三河三か寺)に干してあった籾を己の砦の兵糧米として略奪したことに端を発したと記されている。寺内は「守護不入」である。そのことに怒った空誓たちは門徒宗を集め、当該砦に攻め入った。力自慢の空誓も鎧をつけて鉄棒を振り回して家康の兵を叩きのめしたという。
これが「どうする家康」前半のクライマックスにしなければ、脚本家の腕が疑われますぞ。もちろん若き家康は松潤です。それに対抗する門徒のトップは、いかにも憎々しげなしたたかな役者を持ってきてほしいものだ。空誓のあくが強ければ強いほど、松潤のさわやかさが際立つ。
地元の歴史を大切にするワシャとしても、どちらにせよフィクションのドラマとして創り上げるなら、配役には気を使ってほしいと思っている。
例えば、坊主と言えば、今回の「鎌倉殿の13人」で文覚(もんがく)を演じた市川猿之助の怪僧ぶりがよかったですね。連続してぼんさんがやれるかどうか判りませんが、猿之助あたりが本證寺の伽藍に立って、門徒宗に檄を飛ばしている絵なんざぁ見てみたいものですね。