ウクライナと大横綱

 大相撲中日。高安が8連勝と好調だ。ただ照ノ富士が休場で横綱不在となってしまったので、やや締まらない。しかしその分を大関の御嶽海、関脇の若隆景が1敗で高安を追っているので、そのあたりが救いになっている。

 ワシャが応援している宇良は1勝7敗と振るわないのでちょいと寂しいが、関脇の阿炎が6勝2敗、志摩ノ海が4勝4敗、琴恵光が5勝3敗と頑張っていてくれるので、テレビ桟敷で力が入るんですね。

 横綱のことである。照ノ富士は大変な苦労をして序二段からもどってきて横綱まで登り詰めた。それはすばらしい実績で素直に賞賛をしたい。それとこれとは別なんだが、やはり横綱には横綱の品格が必要だと思っている。膝の状態やいろいろなところに不調があるのは分かるけれども、さすがに横綱である。身になるべく包帯のようなものは着けずに土俵に上がるべきだと思っている。もし膝にごつい装具を着けなければ土俵が務められないというのであれば、そもそも横綱は土俵に上がってはいけない。

 力士の矜持として、まわし以外を身に付けないというものを実践してこその横綱だと思うがいかがでしょう。

 横綱といえは、ワシャの世代はなんと言っても大鵬である。「巨人、大鵬、目玉焼き」と言われたほどの人気者。大相撲の歴史の中で燦然と輝くスーパースターだった。

 大鵬樺太島敷香町の生れで、父がウクライナの人であることはけっこう有名である。元ロシヤのコサック兵で、除隊してから樺太に入植し、大鵬の母と知り合って結婚した。大鵬が生まれたのは昭和15年で、その後、5歳の時に父親と別れて北海道に引き上げてきた。それからは極貧との戦いで、大鵬自身もこう語っている。

《「苦労は買ってでもしろ」ということばがありますね。もしかしたら、私はそれを地で行っていたようなものかもしれないなぁ。今思い出しても、「ようやったなぁ」と思うけど、小学3年生の知床時代、斜里からウトロまでの13里、つまり五十何キロかの道のりを歩いて移動したことがあったんですよ。その頃は、車などは走ってなくて、雪解けの馬車道をひたすらあるくわけです。イヤでも足腰が強くなったわけです。》

 この幼少時代の苦労が、無駄なく後の大横綱の礎になっている。天才、突出した人はこういう運命を背負っているんですね。

 大鵬、中学校を卒業するとすぐに営林署に勤めている。ただ弟思いの兄さんが「定時制の高校にいけ」と言ってくれて、仕事をしながら高校にも通い始めた。しかし、運命というものは呼び寄せるものなんですね。高校1年で180㎝もあった大鵬は、相撲関係者の目にとまっていて誘われていたのである。でもね、入門当時の大鵬の写真を見たことがあるけれど、ガリガリの栄養失調じゃないかと思うほどに痩せていた。相撲関係者、身長だけでスカウトしたとは思わないが、これほどの痩せっぽちをスカウトするとはね(笑)。

 昭和31年9月に新弟子検査を受け、184㎝、74キロという体格で三番出世というからかなり遅ればせの出世披露ですね。まぁあまり期待されないウドの大木と言ったところだったのが、その2年と二場所目に幕下筆頭で6勝2敗(当時幕下以下は一場所八番取った)で、よく五月場所に十両昇進、18歳の若武者であった。

 昭和35年初場所で新入幕。昭和36年九月場所後に横綱に推挙され、21歳で綱を締めることになる。この時に大鵬は「横綱になれてよかった」などと寸分も思わなかったそうだ。「横綱というものは、その使命を果たせなかったら、相撲を辞めるしかない」と、悲壮な決心を胸に秘めて、「これまで以上に精進して努力するしか道はない」と覚悟したそうです。

 これが21歳の若者ですよ。昔も今も大学生だったら浮かれ騒いでいる年頃ですぞ。

《相撲道、人生もそうですけど、言葉で表すとしたら、「忍」です。辛抱する、努力する。努力するというより、耐えることしかないと考えていました。》

 この大鵬の言を、ウクライナの人たちに贈りたい。あなたたちウクライナ人の血を半分持った大横綱が「忍」と言っています。ですから、今は辛抱してください。クソプーチンに負けずに耐えきってください。 大鵬は10年もの長きにわたり横綱の重責に耐えに耐え、大横綱の地位を確立しました。 ウクライナもロシヤの理不尽な侵略に耐えて忍んでください。そうすればじきにプー政権は崩壊しますから、そしてウクライナは自由と民主主義を守り抜いた誇り高い国家として世界史に名を残すでしょう。

 がんばれ!ウクライナ!!