12月8日は晴れていた

 昭和天皇はこの日、午前2時50分に御起床。軍装を召され、3時に御学問所において東郷茂徳外務大臣の奏上を受けられる。まだこの時、真珠湾攻撃は始まっておらず、米国大使から上がってきた親電を天皇が受領する前の、政府の見解の奏上であった。

 その後、午前3時25分(ホノルル時間7日午前7時55分)にオアフ島米軍施設に対する攻撃を開始した。「トラトラトラや!」

 昭和天皇は、午前7時25分に東条英機首相の謁を賜い、米英両国への宣戦布告の件の内奏を受けられる。平和を希求されていた昭和天皇である。この時は憮然としたお顔で東條の報告を聞かれておられたと思う。

「宣戦布告」については、軍部がかなり以前から調整を図っていた。これには山本五十六長官の強い意向があって、交戦するにしてもフェアな戦いを望んでいたからである。しかし、要領の悪い外務官僚と、アメリカ側の妨害工作もあって、開戦前にアメリカ当局に「宣戦布告書」が届くことはなかった。

 故に、「奇襲」とか「不意打ち」とか言われてきたわけだが、これもルーズベルト大統領のプロパガンダに乗せられただけで、世界の戦争史を見渡しても、日本人が自虐に陥るほどのことではないのだ。

 さらに言えば、ルーズベルトの背後には、アメリカの参戦を渇望するイギリス首相のチャーチルの存在や、ポーランドヒトラーと山分けした強かなスターリンの存在などがあって、山本五十六に代表される当時の日本軍部などピュアな書生の域を脱するものではなかった。生き馬の目を抜くどころか、腸(はらわた)すら抜いてしまうような国際政治の中で、真面目でまともな日本が貪欲な欧米列強や、計算高い支那に翻弄されるのは当然といえば当然の帰結であった。

 

 日本は、国民を巻き込んで総力戦を3年8カ月戦った。まさに死闘で、日本人は300万もの命を差し出さなければならなかった。

 開戦時に首相だった東條をワシャは認めない。政治家であった以上、結果責任なのである。これだけ多くの国民に辛苦をなめさせた政治家は批判されてしかるべきなのだ。しかし、東條はすべての責任を取って、戦勝国のリンチとも言える東京裁判によって処刑された。なにも言い訳をせず、その背に重い荷を負うて逝った。だから、東條も含めて靖国に祀られている御霊には頭(こうべ)を垂れるのである。

 

 各新聞社の本社前には手書きの「日‐米英開戦」の速報が張り出された。週明けで出勤したサラリーマンたちがその戦果発表に群がり集まっている写真が残っている。その日は、晴天だが北風が吹いて寒かったのだろう。男たちはみなコートを着て犇めいている。ちなみに8日の夜は風は弱まったが晴れ、9日は晴れときどき曇りの予報が新聞に載った。

 これが最後の天気予報となり、戦争が終わるまで防空対策上の恐れがあるとのことで報道禁止となった。