ベトナム人は葦(あし)

 昨日の日記で地元神社の「春の大祭」について少し触れた。その中での話をいくつか披露したい。

 まずタイトルにも出したベトナム人のことである。土曜日の祭礼準備の時だった。神社の役員や町内会の理事ら総勢15人くらいで、本殿、拝殿、末社3つ、社務所、境内の清掃。提灯の吊り上げ、神楽殿の設置、400mほどの賛同への灯篭設置などなど、やってもやってもキリがない。

 そこに通りかかったのが神社の南にある日本語学校に通うベトナム人の若者たちだった。10人程いたかなぁ。男女が混成し、やや男が多かった。男も女もみんな背が高くすらっとしている。東南アジアの子供たちなので、面差しも朝鮮人・モンゴル人とは違ってやわらかい。日本人と言っても通用する。これ正直な話なんですが、男は色男で、女はかわいらしい娘ばかりだった。ベトナム政府が容姿端麗な若者を選んで、日本へ送ってきているのかと思うほどである。その子たちがどやどやと境内に入ってきて、神社総代に片言の日本語で「手伝いをしたい」と伝えたのだ。

 人手は足りない。準備は遅れている。神社総代は大歓迎でその申し出を受け入れた。彼らには境内周辺に立てる何十本もの寄付の幟を組み立ててもらう仕事を担ってもらった。竿を接続する者、旗を広げる者、旗を竿に通す者、ベトナムの若者たちはそれを仲間で手分けして要領よく仕事にかかった。

 ワシャは神楽殿の準備をしていて、上方からその様子を眺めていて、

「そういえば司馬さんがベトナム人のことを褒めていたなぁ」

 と思ったのである。

 司馬遼太郎、文明の周辺を書くことに後半生をかけた。『街道をゆく』では、朝鮮、モンゴル、支那・江南、閩(びん)、耽羅(たんら)、台湾などを詳細に取材している。

 とくに、ベトナムについては『人間の集団について』(中公文庫)でまるまる一冊、司馬史観により「ベトナムから考える」をテーマに人間そのものに切りこんでいる。 

この本の《葦と「たおやめ」ぶり》という章に、ベトナム解放戦線の外相グエン・チ・ビンの言葉を引いている。

ベトナム人は葦です」

 これについて司馬さんはこう言う。

《この戦争を通じてみせたベトナム人の本質をこれほど見事に言い表した言葉もないが、形而下的にみてもこの土地のひとびとは葦の感じで、ひどく植物的である。》

 なるほど、ワシャがあの若者たちに感じたのも、淡白な植物的な感覚だったのだろう。

 確かに川口あたりで幅を利かせているクルド人とか、30年前くらいから西三河に大量に入り込んでいる日系(と称する)ブラジル人、このところ増えだしたイスラム系、それよりもさらに前から入り込んでいる割り込み大好きな支那系など、どの人種を見てもきわめて「動物的」である。

 スーパーでも、どうしたらあんなにケツがでかくなるのか?と疑問に思うほどの体系をした女たちが、「#&■○▽@$$A%QX◆□!」とか大声で話をしながら通路を塞いでいるところに出くわす。

 しかし、ベトナムの若者たちは10人もの仲間がいるのに、大声を出すこともなく笑顔で幟旗の組み立てに勤しんでいる。そのたおやかさに好感が持てる。まさに司馬さんの言ったとおりだと思った。

 ワシャは、この日記にも書き散らかしているけれど、傍若無人な外人が大嫌いである。郷に入れば郷にしたがえ、そこの土に馴染み、その土から養分を得て、少々の風にも倒れないたおやかな植物のようになればいいと思っている。司馬さんの文章を引く。

《巨人(動物)であるアメリカは葦の原にとびこんでこん棒をふるったが、葦は薙(な)がれても切れることはなかった》

 笑顔のベトナム人を見ていて、「顔立ちが日本人に似ている」と思った。いやいや「日本人がベトナム人に似ているのかも」などと考えつつ、神楽殿を仕上げて、境内の掃除に移っていったのであった。

 ここからが面白いのだが、この続きは明後日のココロだ~。