1909−1941

《この権力好きな、そしてなによりも人事いじりに情熱的で、骨のずいからの保守主義者であったこの人物の頭脳に、あたらしい陸軍像などという構想がうかぶはずがなかった。》
 司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』に書かれた山県有朋評である。日露戦争時、山県は日本陸軍の最高権力者であった。それはイコール、長州閥のオーナーであるということで、この時期の日本にあって絶大な権力をその手に握っていた。
 のちに首相となる原敬の言がある。
「山県という人物の奥にはなんというか、いやしさがある。なんといっても足軽あがりなのだ」
 このセリフを引いて、司馬さんはこう分析している。
足軽の出だからやることや考え方にいやしさが出ているということではないであろう。出世意識や栄達意識、あるいは自己の権勢をまもろうという意識がつよすぎることが山県の印象を暗くし、卑小にしている。》
 明治42年(1909)の今日、山県は、天皇の政務上の最高諮問機関である枢密院議長に任ぜられた。卑小なる権力者による国の中枢の破壊が進められていく。

 下って昭和16年(1941)、剃刀とあだ名された事務処理能力の高い軍人が首相になる。第40代総理大臣東條英機である。彼の事務処理能力の高さには定評があったが、それは神経質の裏返しであったことも確かだった。
 例えば、部下がひとつの行動から次の行動に移るまでの時間を頻繁に計ってみたり、民情視察として街中のゴミ箱の中身をチェックに歩いたりしている。書類のチェックに命を賭け、規則を重視することには徹底していた。
 事務吏員ならこれでよかろうが、一軍の将、国家運営の責任者がこれでは、もの足りないどころが、国に害を成す。事実、事務吏員首相の在任の3年間に日本は滅亡への道をひた走ることになる。
 そんな宰相が70年前の今日、貴族院で施政方針演説を行った。
「敵性行為の断固排除、戦火波及の極力防止、事変完遂の妨害を許さず」
 この外交三原則が、その後、どう転んで、日本国民の上にいかなる災厄が降りそそいだかは、皆さん、ご存知のとおりであります。