占守島

千島列島最北部に位置するカメムシのような形の島である。島の東に占守海峡があって、10キロ先はゾウガメのような格好をしたカムチャッカ半島となっている。ちょうど大きさもカメムシとゾウガメくらいの差はありますね。

 面積的にいうと、240㎢だから、島根県隠岐諸島のまるい島「島後(どうご)」と同じくらいだ。

 なんで今日、この島のことを持ち出してきたかというと、朝日新聞紙を読んでもこれといったネタがなかったんですわ。他にも「文藝春秋」など月刊誌をペラペラと繰ってみる。そこにはネタがけっこうあるのだが、出勤前の短い時間にちょこちょこっとまとめる自信がありません。こうなると「困った時のニャンコ先生」なんだけど、それもホントに調子の悪い時に取っておかないとね。

 で、歳時記をちょこっと調べてみたら、明治26年の今日、占守島調査探検隊が占守島に発上陸を果たした日であることが分かった。これなら書けそうだわさ。

 海軍の船で探検隊が東京を出たのが同年の3月20日、探検隊は千島各島を探検しつつ、5ヶ月以上を要して最北端の占守に到達した。

 リーダーは海軍大尉郡司成忠、一行の快挙が新聞などで広報されると、日本国民は「快哉!」を叫んだものである。

 プチ情報なんだけど、この郡司大尉は文豪の幸田露伴の兄さんなんですね。随分、ご兄弟で印象が違うもんですな。郡司大尉はその後「報効義会」という団体を組織した。そのメンバー50名を率いて占守島に定住し、漁労に従事したとのことである。東京の屋敷で文筆生活をおくっていた露伴とはまったく似ていない硬派な人だったような。

 その占守島が52年後の8月18日、スターリンソ連の大部隊によって襲撃を受ける。太平洋戦争は3日前に終わっているにも関わらず。

 東京からは「終戦の詔が出された。武装解除にむけ奮闘努力せよ」と指示がきたんでしょうね。

 兵士たちは、日本の敗北を知って号泣したというが、それでも心の片隅には「これで故郷に帰れる」という安堵もあったろう。

 しかし、スターリンソ連は国境をこえて占守島の竹田浜上陸作戦を開始した。繰り返すけど終戦後でっせ。打からワシャはロスケが嫌いなんでヤンス。

 まさに不意打ちのソ連軍侵攻だったが、占守島を守る陸軍第91師団は強かった。大挙押し寄せてきたソ連軍をボコボコにしてしまったんですね。日本軍の大勝利という結果で太平洋戦争終了後の大戦(おおいくさ)は締めくくられた。ホント、ロスケはヘボかった。

 ところが勝っても、占守島から択捉・国後・歯舞・色丹まで根こそぎ、延長1200キロに及ぶ列島と海域を盗まれてしまった。スターリンというコソ泥に。

 国際政治というのは、泥棒と詐欺師と殺人鬼と狂人で成り立っている生き馬の目を抜く世界なのだ。残念ながら日本人は人が良すぎる。戦後間もない頃の左翼はまだ現実が見えていたが、令和のサヨクはお花畑しか見えなくなってしまった。これはなにも野盗ばかりのことを言っているのではない・・・間違えた「野党」でした。

 野党ばかりではない。保守の中にも親中売国お花畑が多数いるのである。このままでは占守島を死守した第91師団の皆さんに顔向けができない。

 彼らはコソ泥スターリンの命令でシベリアに送られて強制労働をさせられた。隣国の素っ頓狂な国が「日本に徴用されたニダ」とたわ言を言っているが、朝鮮人は応募して軍艦島に来て、給与も貰っていたのだ。

 いいか、占守島守備隊の兵隊さんを含め、200万人がシベリアに抑留され、その内の40万人が苛酷な労働で殺された。スターリンに奴隷労働を強いられたのである。

 話が大幅にずれていますが、そんなことを考えさせられた8月30日でした。

 今日も忙しい。それでは行ってきま~す。