占守(シュムシュ)

 昨日は寝不足で、思いが消化不良だった。もう一度、咀嚼して占守島について書きたい。
 占守島、20もの島が連なる千島列島最北端にある388平方キロ、このあたりでいうと岡崎市(類似のところでは、会津若松富士宮、熊本など)と同じくらいの面積がオホーツクに浮かんでいると思ってもらえばいい。島の形状は、マンボウの形になっている。頭を北に向けて、巨大なカムチャッカ半島の尾にまとわりつく。
 占守の地形である。千島列島は、火山脈の高いところが、海面から顔を出して形成された。だからどの島も高い山と急峻な地形を持っている。ところが占守だけは比較的平坦だった。例えば占守の隣の幌筵(パラムシロ)島の最高標高は1816m、占守の西にある阿頼度(アライド)島はわずか150平方キロの小さな島にも関わらず、最高標高は2339mとなっている。形状はまさに富士山である。富士が裾野あたりから海に浮かんでいると思えば間違いない。
 そんな高い山をもつ急峻な地形の島々の中にあって、占守の最高標高は189mで、なだらかな丘で形成された島というところだろう。
 気候は、網走より緯度で7度も北にあるが、対馬暖流の恩恵を受けて、知床半島より暖かい。とはいえ夏は短く、9月も末になれば一気に冬がやってくる。10月から雪が降りはじめ、翌年の5月まで吹雪にとざされた島となる。こんな最果ての島に、北からのアメリカ軍の攻撃に備えて2万5000の日本軍が駐屯していた。
 占守島守備隊の参謀は言う。
「師団に配された大砲は200門、弾は数十万発。戦車は最新式が85両。兵の素質も抜群で、当時の日本軍の水準としては抜群のものでした」
 昭和19年から20年になると、千島から南方にいたるまでの制空権・制海権はほぼアメリカに握られてた。つまり、戦争を始めた頃に、せっせと占守に運んだ武器弾薬を本土に戻したくても戻せない状況が生じる。なおかつ、アメリカは南からの日本侵攻に主眼を置き、北の守備隊は取り残されたような格好で、その力量だけを磨き上げていた。
 唐突だが、ロシアの国策としてのドーピングのことである。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151114-00050011-yom-spo
 国際陸連は、ロシアの制裁に踏み切ったようだが、残念ながらロシアは国柄としてこういうルール違反を平気でやる。
 昭和20年8月9日、ソ連は日本に宣戦布告している。宣戦布告といったって、まだ「日ソ中立条約」は機能しているのだ。それも、日本は終戦交渉を進めるべくソ連に依頼をしていた。日本に降伏の意志があることを百も承知で、国家間の約束を踏みにじって襲撃を開始したのである。ううむ……襲撃などという上等なものではない。蛮行、狂気と言っていいほどの卑劣な裏切りだった。
 アメリカはソ連に対し「日本は降伏しているので停戦すべし」と通告しているが、スターリンという稀代の悪人は、ソ連軍に火事場泥棒を遂行させる。それは満洲で、樺太で、そして千島で。
 8月18日午前2時30分、占守での日本軍の迎撃が始まった。司馬遼太郎の恩師である池田末男大佐率いる戦車部隊などの活躍で占守島の決戦に勝利をする。しかし、国家としてはすでに降伏しているのだ。上部機関からの命令に、占守島の日本軍は武装解除するしかなかったのである。
 占守での戦いがあったおかげで、スターリンの野望である北海道占領はまぬかれた。そうでなければ北海道は「日本民主主義人民共和国」になっていただろう。冗談ではない。
 そういった意味からも、占守島で発見された日本兵の遺骨に敬意を表すものである。