呉智英さんの『バカに唾をかけろ』が鋭い。「人権を疑え」という論説が「人権」というあやふやなものを考える切っ掛けを与えてくれる。
呉さんは言う。
《人権は単なる「取り決め」すぎない》
そう前提して厳しくこう断言する。
《愚か者の最後の切り札が人権思想である。人権を持ち出せば何でも語りうると思っている。議論はすべて人権に帰着して結論が出ると思っている。そんな愚か者が知識人と自称して学界や言論界に生息している。》
いやいや、学界、言論界どころか、政界から一般市民の間にまで「人権教」が蔓延っている。
呉さんは「人権」という思想は17世紀18世紀の人間観であると言われる。様々な学問が進歩した21世紀に、「人権」観は限界に達しているとしてこう続ける。
《人間は平等ではないし、自由を求めるとは限らないし、独立した個人なるものが存在しているわけではないし、人間に理性が備わっているという保証尾はないし、確たる意志が本心から出たものかどうかわからないし、自分の行動に責任を負う能力を持っているかどうか疑わしい。》
この5つの「し」で繋げた一文が人権派にとどめを刺している。さらに《こんなことは、心理学、精神医学、宗教学、社会学、民俗学、文化人類学・・・、その他あらゆる学問分野にこの百年間蓄積されてきた成果が教えるところだ》と指摘する。要するに、「人権」を叫ぶ者は、勉強が足りない、知恵が足りないのである。
この後に、死刑制度の賛否についての呉さんの意見が展開するのだが、これがなかなか重い。軽々に「死刑肯定」に与するのも問題が多しことが分かるし、かといって「死刑廃止」を進めることも百害あって一利なしのような気がする。
呉さんは言う。
「死刑は、5人殺害している殺人犯に6人目の犠牲者を思いとどまらせる方法にはならない」
確かに・・・。
そこで呉さんは支那人マフィアの処刑方法「背中の鉋がけ」を出してくる。彼たちは、その罪科によって処刑方法がどんどんとレベルアップするのである。これ以上の刑罰はちょっと書けないくらい残虐だ。これなら6人目の殺害を躊躇するかも知れない。
逆に「背中の鉋がけ」を背負っている支那人マフィアの前に絞首刑しかない日本の刑法はまったく無力なのである。
この、世にも恐ろしい刑罰は、支那三千年の死の掟に則った方法で、大陸の思想は21世紀においてもそら恐ろしい。
その支那マフィアの親玉である中国共産党が支配するウイグル、チベット、南モンゴル、香港の人々に、どれほど恐ろしい境遇が待っていることだろう。
冗談抜きにして、ウイグルでは生体からそのまま臓器を摘出するという死刑が横行している。そんな死刑はナチスでも採用していなかった。
人権を叫ぶ者たちは、日本国内の些末な人権に目くじらを立てる前に、支那の暴虐に対して声を上げろよ!異議を唱えろよ!支那の大使館前で、いつも国会前でやっている抗議活動をやってみろよ!
呉さんの最新刊を読んで、そんなことを感じた。