林子平

 ワシャの嫌いな江戸時代の政治家で、松平定信というのがいる。田沼政治の後をうける格好で登場した「清廉潔白」な陸奥白河藩主である。田沼意次の育成した商業資本を否定し、農政中心主義に回帰しようとした石頭なやつだった。だったらそっちに注力をすればいいものを、このバカ殿は「風俗矯正」にもっとも力を入れたからたまらない。「好色本の絶版」「私娼や男女混浴の禁止」「質素倹約の励行」などなど江戸市民をギュウギュウと締め上げたのである。

「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」

 名狂歌ですな。

 その真面目バカの時代に一人の才人が登場する。林子平である・・・・・・と、ここまで書いてきて、ちょっと子平の家系を調べたくなってしまった。これがえらいことになったのじゃ(苦笑)。

『日本史歳時記三六六日』(小学館)に《子平は江戸小日向水道町(文章区)の幕臣林良通の子》とあったので、『江戸幕臣人名事典』(新人物往来社)を当たったが、林良通が出てこない。ということで本格的に調べるために『寛政重修諸家譜』を引っ張り出したらはまってしまった。なにしろ林という幕臣が系列だけで5家、その新家、分家がまたたくさんあって、全部で10巻も当たらなければいけない。朝から大変な作業をしてしまった(とほほ)。

 ところが、『寛政重修諸家譜』には「林良通」という人物は出てこなかった。おかしい。「こうなったら徹底的に調べるぞモード」に入ってしまった。『国史大辞典』で林子平を調べ直すと、おひおひ~、そこには子平のおとっつあんは「岡村源五兵衛良通」とあるではないか。『日本史歳時記三六六日』違ってまっせ。

 で、また、『寛政重修諸家譜』から『江戸幕臣人名事典』やらを調べたんですが、やはり出てこない。この「岡村良通」という人物が「罪を得て除籍」されているので、「諸家譜」などからも完全に消去されてしまったか。

 ということで、大回りをしてここまでたどり着いたのだが、すでに日曜日の朝という大切な時間を2時間も「調査」に費やしてしまった。

 さて、『国史大辞典』に依れば、子平は「除籍」された岡村良通の次男で、禄を取り上げられ露頭に迷った。しかし叔父が町医者を開業しており、そこで養われることとなる。姉が仙台藩主の側室に召し出され、その縁で兄が仙台藩士取り立てられ、小平は兄の厄介者として仙台に下る。18歳のことであった。

 ここからが子平らしいのだが、厄介者という立場をまったくものともせず、無禄厄介ということは「自由」であるということに他ならない。だから子平、自由に江戸に遊び、長崎に遊学をして知識を深めていく。ここで見聞を広め、蘭学者などとも数多交わって、世界のことを学んだ。

 そして『海国兵談』にいたるわけである。

 時は寛政3年(1791)、ヨーロッパ列強のアフリカ、アジアの侵蝕は、清国まで到達しようとしていた。しかし、東方の海中に浮かぶ武の国は、二百年足らずの太平で「無策の国」に成り果てていた。

 子平はそのことを看破し、国防の重要性を説いた。国際的な立ち位置から日本の国防(海防)を見れば、まったくなにもしていないのに等しく、長崎を守ってさえいれば日本国が守れると信じているのは、宗教に近いものであった。

 これって、現在にも通じていて、「9条さえ守っていれば日本は平和だ」と言っている「9条教」の皆さんと同じなのである。

 子平は言う。

「細かに思へば、江戸の日本橋より唐・阿蘭陀、境なしの水路なり」

 江戸湾への異国船の侵入を60年前に予測していたのである。

 しかし、時の為政者は(ボンクラ定信ね)、『海国兵談』などの板木を没収し出版を禁じ、子平に蟄居を命じた。このことについて『日本の歴史』(中公文庫)の一文を引く。

《板木を没収したのは、一見奇異な感がなくもない。子平はこの著書において、対外脅威にたいする挙国的な海防の急務であることを力説しており、その点では定信も切実な関心をもっていたが、子平がその意見を上書などによって幕府に上申せず、直接世間にたいして放談したことが癇にさわったのであろうといわれる。この点では定信は、やはり偏狭な独裁者の域を脱しなかったのである。》

 

 だいぶ回り道をしたけど、要するに林子平が警鐘を鳴らした時代が、再びやって来ているということを言いたい。江戸の泰平に微睡んでいる権力者にはその警告が届かなかった。「癇にさわった」だけで国を危うくするのである。

 昭和、平成と「9条教」の信者が望む平和が続いてきた(日本だけにね)。しかし、日本の周辺には大きな波が押し寄せている。オーストリッチシンドロームに陥っているお花畑の皆さんにはそれが見えていない。物理的に見えないのだから気が付けないのかもしれないが。

 だが、もうそんなバカを相手にしている場合ではない。子平が蟄居させられて「親も無し妻無し子無し板木無し 欲もなけれど死にたくもなし」と嘆いているが、少なくともその60年後、列強は日本列島に押し寄せて、下手をしていれば清国のような有様になっていただろう。しかし、神州日本は強かった。何人もの侍、草莽の志が命を捨てて日本を守ってくれた。

 でもね、あの頃は「ミサイルも無し核無しサイバー無し細菌も無し」だった。だから辛うじて国を守れた。しかし今は違うのである。

 そのことを理解した上で「奴隷でいいので死にたくもなし」ではいけない!

 林子平の蟄居記念日に考えた。