徳山権十郎

 一人の人物と出会った。名前を徳山権十郎(とくのやまごんじゅうろう)という。もちろん現代の人ではない。江戸侍の履歴書『寛政重修諸家譜』に依れば、元禄13年に11歳で徳川綱吉に拝謁をしているから、元禄3年生まれである。その後、2240石を継ぎ、大旗本の殿様となった。『寛政重修諸家譜』の記載はわずか12行と少ない。通常、事歴のある大名・旗本であると数ページに及ぶようなこともある。例えば、長篠合戦で活躍した奥平信昌などは5ページに及んでいる。それに比べればそっけないほどになにもない人生だった。唯一、見るべきは「延享元年御先鉄砲の頭に轉じ(中略)盗賊を追捕す」という記載のみであろう。
 ところがこの徳山権十郎に命が吹きこまれる。上の記載に時代小説の名手池波正太郎が目をつけたのである。池波は『寛政重修諸家譜』の紙の間に死んでいた権十郎を見つけ声をかけた。権十郎、池波の筆がよほど気に入ったのか、むくりと起き上がると、まずは短編の『秘図』に活躍する。その後、『おとこの秘図』という長編の中で縦横無尽に駆け回って、それでも飽き足らず、長谷川平蔵に変身して、文庫本にして20数冊を走り回り、テレビ化もされて現在に至っている。
 3月28日に大塚家具の内紛を話題にして、江戸時代のお家騒動の話をした。岡崎城で起きた「水野騒動」のことである。その時は時間が無くて(早朝にはそれほど時間はないんですよ)、思いを馳せることができなかったが、その後、『おとこの秘図』のことを思い出した。優秀な跡継ぎが、周囲に疎まれていくシチュエーションが似ているのである。
 岡崎の水野忠辰(ただとき)は、挫折し身を持ち崩していったが、旗本の権十郎は、抵抗勢力である父親を打破して、つよいリーダーに成長していった。もちろん権十郎のほうには池波の創作がふんだんに盛られているに違いない。しかしそういう苦境にはまりこんでいる人間は現在にも存在し、なんとか状況を打開しようと足搔いているだろう。そういった意味では、徳山権十郎の物語は一服の清涼剤になる。

 さて大塚久美子氏が現在の権十郎であるかどうかは、もう少し時を経なければ見えてこないと思う。しかし、跡継ぎを引きずりおろそうと画策する大塚家具の会長は、権十郎の父親にそっくりだった。そういう観点からあの一連の騒動を眺めていると、久美子氏の毅然とした表情が権十郎に似ていなくもない。