平成時代よさらば

 もう新聞もテレビもこのニュースで満載ですわな。だからワシャは平成に惜別をするようなことは書かない。それよりも202年ぶりになる天皇の退位のほうに興味がそそられた。

 今回以前に退位された最後の天皇は、202年前の光格天皇である。119代の天皇で、父の後桃園帝から8歳で譲位を受けた。さすがにこの年齢に皇室を率いる力はなく、上皇院政を敷いた。在位年数は江戸時代の天皇としてはトップで39年であった。

 時期としては、江戸を前中後期の3つに区分したとして、後期の初めの時代ということになる。光格天皇が即位する少し前に、江戸幕府では田沼意次が頭角をあらわし、老住職に就任している。また、天明の大飢饉が発生し、田沼失脚後、松平定信という堅物が老中になり、息苦しい時代が始まった。日本近海にはロシヤやエゲレスの艦船が出没し、海防問題がクローズアップされた頃でもある。林子平が「海国兵談」を著したのも、この天皇の在位中であった。日本周辺が騒がしくなってきており、ここから幕末へと諸事が動いていくのだが、まだこのころの皇室は平和であった。

 光格天皇関連で特筆すべきは、「尊号事件」というもので、これに堅物の松平定信が関わっている。ワシャは、徳川歴代の大老・老中の中でも、この石部金吉がもっとも嫌いだ。こいつとだけは友だちになりたくないと思っている。

 そんなことはどうでもいい。「尊号事件」だった。

 光格天皇の父は閑院宮典仁(すけひと)親王で113代の東山天皇の孫にあたる。典仁親王の兄が中御門天皇で、その流れが5代続いた。118代の後桃園天皇には男子がなく、東山天皇の曾孫にあたる閑院宮家から師仁親王を迎えて、後桃園天皇の娘の欣子内親王を皇后におさめ、119代光格天皇となる。

 話が面倒くさいですけど、要するに光格天皇のおとっつあんは親王様だったということで、親孝行の光格天皇は「父上に太上天皇の尊号を贈りたい」と幕府に打診してきたんですわ。

 時の将軍が徳川家斉、側妾40人、子供は55人を数えた性豪将軍だった。しかし、気分は晴れやかな男で、光格天皇からの申し出をこころよく承諾しようとしたのだが、老中が悪かった。例の松平定信である。こいつだけが杓子定規に猛反対をして、弁が立つのをいいことに、将軍、老中を説得してしまった。

 この堅物の阿呆のおかげで光格天皇の親孝行はできなかった。明治政府によって、典仁親王には「慶光天皇」と追尊され、光格天皇の意志は遂げられるわけだけれども、残念ながら光格天皇はすでに崩御されている。バカな官僚がいると親孝行もできないというエピソードでした。

 

 このことの関連で皇室のことを調べていたら、こんな事実を発見しましたぞ。今上天皇が125代であられるので、わずか12代前の東山帝(113)で配偶者は4人、中御門帝(114)で6人、桜町帝(115)で3人、桃園帝(116)で1人、後桜町帝(117)は女帝である。桃園帝が22歳で崩御し、後継の御子がまだ4歳であったことから、急遽、皇位を継承し、桃園帝の御子の成長を待った。女帝であるし、中継ぎだし、配偶者もいない。

 この後、御子が成長し、後桃園帝となるのだが、この方も22歳で崩御しておられる。だから女子一人しかもうけられなかった。そこで傍系から光格天皇が入られるわけだが、この人はがんばって8人の配偶者とがんばって17人の御子に恵まれる。家斉ほどではないにしろ、艶福家ではあった。

 

 なにを言いたいかというと、ワシャは皇室を敬してやまないものであるが、天皇家系図を見ていると、やはり天皇家を存続させるためには、子や孫がたくさん必要だということである。中御門系が3代で絶えてしまったように、子が少ないと血脈というものはいともたやすく消えてしまうのである。これが庶民ならば致し方がない。しかし、125代、明日になれば126代続く皇室が絶えてしまっては、日本そのもの、あるいは日本の伝統文化の大いなる喪失につながる。国家の存亡といってもいい。

 今や、次世代で皇統を継いでいけるのは悠仁様お一人になっている。古代より連綿と続いてきた天皇家を絶やしてはいけない。

 平成が終わろうとしている今こそ、そのことを真剣に考えなくてはならない。