田沼と白河

「田や沼や 汚れた御世を改めて 清く澄ませ白河の水」
「白河の あまり清きに住みかねて 濁れるもとの田沼恋しき」

 前の歌は、田沼意次が失脚し、松平定信が老中の首座になって幕政改革に着手したころに詠まれた。その後、定信の改革が厳しさを増していく時期に、田沼政治を懐かしんで詠んだのが後段の狂歌である。
 定信の登場を歓迎したかと思えば、田沼の再登板を願ったりと、世人というものは、江戸の時代も平成の世も都合のよいものだと思う。

 ただね、最初の歌には疑惑がある。それは「清く澄ませ」と言われている松平定信がきわめて怪しいからだ。教科書には「寛政の改革」という項がおこされ「天明の打ちこわしの危機に、白河藩主の松平定信が老中となって、田沼意次の営利を主とした政策を排して、農業を主とする政策に復した」とか書いてある。
 これってけっこう嘘っぽい話なんですね。実は、定信が個人的に田沼意次を恨んでいたことは有名で、意次の息子の意知(おきとも)を殺そうと仕掛けたのが定信ではないかという噂も出ているくらいだ。
 あるいは「天明の大飢饉」の際にも定信は汚い手を使っている。当時、幕政を握っていた意次は、流通を活発化させることで、凶作に苦しむ奥州全体を救おうとした。だから、米の買いだめや売り惜しみを禁じている。
 それに対して、白河藩の藩主だった定信は、幕府が布告した「買占めの禁止」をないがしろにして、1万数千俵もの米を自藩救済のためだけに掻き集めた。溜め込んだ米のおかげで白河藩では餓死者を出さなかった。このため、定信の善政として語られているが、白河藩の買い占めのために流通が乱れ、他藩の農民が大いに迷惑をこうむったことは触れられていない。
 このあたりの不正が暴露されることを恐れて、意次、意知親子の失脚をねらったという説もあるくらいである。
 歴史の教科書では、まじめで清廉な雰囲気をかもしているが、かなり自己中心的で、己のために他者を陥れることも厭わない男だったようだ。
 すでに寛政のころになると、経済発展がいちじるしく、農本主義では立ち行かなくなっていた。その現実を見て、経済政策を打ち出したのが意次であり、自己都合で意次を失脚させ、また元の農業経済を中心にすえる改悪をしたのが定信ということになる。
 
「田や沼や 汚れた御世を改めて 清く澄ませ白河の水」の歌も、定信が意次の失脚をねらって流布させたという噂もあったりして。