夫婦別でっ姓

 今朝の朝日新聞の生活面に《別姓婚いつになったら選べる》という見出しがあった。東京都で「夫婦別姓」を貫いた70代の元公務員の経緯が語られている。この人、おそらく公務員時代も組合活動に奔走した活動家であったんでしょうね。だって、公務員をやっていて戸籍制度のシステムとしての重要性に気がついていないんだから他所事をやっていたとしか思えない。

夫婦別姓」についてのワシャの考え方を記しておく。支那、朝鮮は夫婦別姓論者が憧れる「夫婦別姓」である。しかしそれらの文化は「女を家に入れない」という差別思想が根底にあることを忘れてはならない。元々「男女平等」だから別姓になっているわけではないのだ。

 日本は農耕に根差したシステムとして集団としての「家」ということを重んじてきた。農耕文化は基本的に平等がベースとなっている。そりゃそうですわな、集団の全員が108もある工程のそれぞれの役割を果たして、ようやくのこと収穫という利にありつける。だから隣り村からきた娘も同じ姓にして同族として扱ってきた。

そもそも大本に天照大神という女性神を戴く国柄である。生物学的に考えても、オスとメスの担う役割の違いがあり、それをそのまま太古から日本は継承してきただけのこと。

 夫婦別姓論者は、「夫婦は対等でありたい」「夫婦は平等でありたい」と主張する。しかし、残念ながら体の機能が根本的に違うのである。そこまで平等にはできないし、逆に違いがあるからこそ、子供を産み、育て、種を存続させることができる。

 このオッサンも《結婚で大切にしたいのは「対等」であることだった。結婚届を出すには、どちらかが姓を変えなければいけない。》と言う。

 このことに奥さんの父親は猛反対したそうだが、当然、そうだよね。事実婚の末に生まれた子供の姓が、父か母と違うんだから。奥さんのお父さんはまともな人だった。

 千年単位の永きにわたって日本のこのシステムは健全に機能してきた。その結果としてすべてのことが(もちろん例外はあるが)、そのことを前提として構築されている。

「それぞれの姓で夫婦でありたいだけなのに」とオッサンは言うが、「たまたま車で道路の右側を走りたいだけなのに」と同じで、単なるわがままでしかない。

 すでにいろいろなところで旧姓の使用を認められている。それに現行制度は男女のどちらの姓にしてもいい。実際にワシャの友人にも、それこそ何人も妻側の姓を名乗っているやつがいるが、別段、なんの違和感もない。結婚するまでは「御社俣!」と呼んでいたものが、今では妻の姓である「白鳥」で普通に通用する。そんなものなのだ。彼が「白鳥」を良しとしないのであれば、旧姓の「御社俣」を使用することもできる。

 オッサンは言う。

《「形式的には『男女どちらが姓を変えてもいい』制度だけど、結果的に女性が変えるケースがほとんど。》

 アホちゃうか?自由になっているじゃん。どちらを選ぼうとその人たちの自由じゃん。その自由を「夫婦別姓」という一色に塗り替えようというのは、それを「全体主義」と言うのだよ。

 最近、中国共産党全体主義がよく判るようになってきた。もちろん北朝鮮全体主義である。日本のサヨクもよくよくその言説を吟味していくと、全体主義臭がプンプンただよってくる。

 昨日、「そこまで言って委員会」で田嶋陽子氏が相変わらずの「ジェンダー論」を滔々と喚いていたが、パネラーの一人から「とても昭和な感じですね」と言われていた。もう、田嶋氏にしても上記のオッサンにしても絶滅危惧種なのかもしれない。