軌道修正して、追悼

 司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の中に「東山三十六峰」という章がある。そこでは出羽庄内出身の浪人清河八郎が描かれている。

 幕末好きな人にはお馴染みの人物で、図らずも新選組を生む切っ掛けをつくった人である。司馬さんの評価を並べたい。

《幕末に出た群雄のなかでも、その才覚の点では超一流の人物である。ただ「百才あって一誠足らず」というところがあり、人徳の点で万人が清河を押したてて死地におもむく、というところがない。》

《端倪すべからず、という漢語は、清河八郎のような男とその行動のためにできたものかとさえおもわれる。》

「端倪すべからず」とは、「推し量ることのできない」という意味ですね。幕府にすり寄ったり、公卿に取り入ったりと勤王や佐幕、倒幕などを使い分けで時代を回そうとしていた。

 これを司馬さんは《奇術師とすれば清河ほどの奇術師はない。》とも言う。しかし「ただ」と続ける。

《ただ、踊らされるほうも、馬鹿ではない。あとから、――したやられた。と、みな気づいた。奇術のたねがあとからあとから割れてゆく。が、清河は、度胸がいい。たねが割れてもせせら笑っている。割れたときにはもう次の奇術を考えているのだ。》

 同時代人の中では出来物であったことは間違いないが、司馬さんの言うとおり百才あって一誠が足らなかった。だから、幕末の群雄の中で主役をはれない。大して出来のよくなかった近藤勇や、偏屈な大村益次郎河井継之助ですら小説やドラマで主人公となっているのだが、一誠のない清河八郎は司馬さんのやさしい眼差しからも洩れてしまった。いやいや、司馬さんがもっとも嫌いなタイプと言っても過言ではあるまい。司馬さんは、才はなくとも誠のある人を好んだ。まさに「誠」の一字を背負って死地に赴いた新選組のような愚直な連中を。

 とはいえ、新選組を生み出した徳川の体制には批判的だった。《次の奇術を考えているのだ。》から6行目にこんな記述がある。

江戸幕府というのは、日本史上の歴代政府のなかではもっとも密偵政治に長じ、かつ密告をよろこぶ資質をもっていた。恥ずべき能力といっていい。》

 清河の暗殺に向けて、幕府が「密偵」や「密告」を駆使していく経過を唾棄しているのだが、これは三河山間部の庄屋から出た徳川幕府のもつ臭みであり、だから司馬さんは、三河人に好意的ではない。

 短編の「愛染明王」ではこう言う。

《安藤彦四郎、この男は、武将としても行政官としても有能なくせに、天性情味がなく、性格が野卑で、どこからみても三河の百姓、というような男だった。》

 安藤彦四郎というのは家康の家臣でバリバリの三河人。のちに大名、老中にまで上がっている。

《「三河馬鹿」と、尾張衆は三河の農民をあざける。しかし三河という国の風土にはもともと尾張のような風土がなく、三河衆はどうにも尾張風の精神の軽快さをもつことができない。》

 とかね。ワシャも三河人なんだけど、酷い言われようである(泣)。

 

 さて、ここまで書いてきて、新聞を読んでいたら、今日の日記のオチをちょっと変えることにした。

 実は《町内会長に「禁断の言葉」をぶつけた北朝鮮女性が処刑の危機》

https://news.yahoo.co.jp/byline/kohyoungki/20210116-00217875/

という、ジャーナリストの高英起さんの「北朝鮮の密告政治」についての記事に持っていって「密告政治は最悪だよね」と落そうと思っていた。アホなりに構成を考えていたんですね(笑)。

 ところが、

《画家の安野光雅さんが死去》

https://news.yahoo.co.jp/articles/1cb54240c2baad16a98938813abbb860fe7949b5

のニュースをたまたま寛げた朝日新聞で見てしまった。

 ならずもの国家の動静など吹っ飛んだ。後半の『街道をゆく』で、司馬さんとずっと旅を続けられた安野さんの訃報のほうが極めて重要であるから。

 

 司馬さんと安野さんの最後の仕事が『街道をゆく43』の「濃尾参州記」であった。ここでも、司馬さんは三河をスコンポコンに言ってはるんですけど(泣)。

 司馬さんは安野さんと豊田市松平郷にある高月院を訪なった。司馬さんにすれば何度目かの訪問だったのだが、この時の酷評はすごかった。

《高月院までのぼってみて、仰天した。清らかどころではなかった。》

 司馬さんがいく直前に豊田市が松平郷を県の補助金を使って映画のセットのような土塀やらなんやらを造ってしまっていた。それを見て司馬さんは落胆した。

《私の脳裏にある清らかな日本がまた一つ消えた。山を怱々に降りつつ、こんな日本にこれからもながく住んでゆかねばならない若い人達に同情した。》

 ワシャは司馬さんに同情された(号泣)。

 しかし、安野さんの筆は優しかった。「濃尾参州記」には何枚もの挿絵が添えられているのだが、松平郷を描いたものは2枚で、それがとても鄙びた感じの山村や寺院に仕上げられており、司馬さんの辛辣な文章とは裏腹に、ホッとする箸休めとなっている。

 

 安野さんの絵はやさしい。『旅の絵本』(福音館書店)は全巻持っている。若者ととともに旅を辿っていくことが楽しい。『絵本三國志』(朝日新聞出版)、『絵本平家物語』(講談社)も大迫力で、現代の絵巻物であり、これは後世に必ずや残っていくものであろう。

 文章も上手い方で、エッセイ集の『散語拾語』(朝日新聞社)や『原風景のなかへ』(山川出版社)などがよかった。

 さらには44年前に出版された『安野光雅の画集』(講談社)も持ってまっせ。これがまた楽しい本で、「ねずみこぞうじろきち」という絵は、江戸の町を次郎吉が千両箱を持って走る絵なんですけど、ひっくり返して見ても江戸の町なんですね。

 このように安野さんの絵にはホントに癒されました。ありがとうございました。また、彼岸で司馬さんにお会いになることかと思いますが、またお二人で、旅を始めてくださいね。

 その時は三河の続きからがいいなぁ・・・。できれば徳川幕府の密告政治のルーツを探り出していただければ幸いです。

 おっと、そいつは今を三河で生きるこちとらの仕事ですね。

 癒しの巨匠安野光雅さんのご冥福をお祈りいたします。

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(蛇足)北朝鮮のくだりは削除しようかとも思ったのですがそのまま載せました。