早朝から玄関の上り框で、新聞紙をピリピリと破いている。2週間ごとに地域の古紙回収があって、どうやら今日がそうだった。いつもなら必要な記事は土日に切り取っておくのだが、この土日が公私ともに忙しくてついついさぼってしまった。だから朝から、新聞紙と格闘をしているということである。
とくに欲しかった記事は、画家の安野光雅さんが「語る」連載を書いているのだが、その中に司馬遼太郎のエピソードで、それをスクラップしておきたかった。その記事を探していて、「だったらその連載 全編をスクラップしなくっちゃ」と思ったのが運のつき(笑)。
安野さん、司馬遼太郎の『街道をゆく』の挿絵を担当した画家で、やさしいタッチが司馬さんの文章によく似合う。そんなこともあってワシャの大好きな画家の一人なんですね。だからワシヤの書庫には、画集もエッセイの著作なども多数揃っているのじゃ。
安野さんは記事の中で、司馬さんをこう語っている。
《気配りの人だと聞いていたが、「聞きしに勝る」人でした。「街道をゆく」では、しょっちゅう一緒に旅をします。それで毎晩、編集者の人とかも交えて食事をするんだけど、その時の話が毎日違う。しかも遅れてくる人がいると、配慮してそれまでのあらすじまで話してくれる。》
そうなのである。司馬遼太郎は「気配りの人」であった。だからワシャは見習おうとして「気配り」を大切にしている。それは「気遣い」と言ってもいい。どちらにしても、相手への「配慮」というのは、そのまま「思いやり」であり「尊敬」であり「好意」でもある。それが伝わって、相手が気分を害するわけがない。
でもね、ワシャの場合、司馬大人ほど人間が練れていないので、「気配り」のできないヤツに腹が立つ。司馬さんなら、黙って席を外す。ワシャもなるべくそれを見習っていきたいと思ってはいるのだが、まだまだ青いので、腹に据えかねると、気配りのできないバカを叱りつけてしまう。それ自体が「気配り」ができていないんですけどね。
安野さんはこの章の最後にこう書いている。
《古戦場を訪ねたときに、名古屋のホテルで別れたのが最後でした。東京に戻って、亡くなったと聞き、僕は珍しく涙が出た。(中略)人徳に打たれたというか、こういう人はほかにいなかったなあ、と。》
「古戦場」とは、おそらく桶狭間であり、「名古屋のホテル」とは名古屋城西の名古屋キャッスルである。司馬さんは亡くなられる直前に、安野さんと愛知県を巡っていた。ようやく徳川家康の故郷に入って家康論、三英傑論、三河武士論の核心に迫るのか……と思った時に、余韻を残すかのように筆をおいて、司馬さんは旅立ってしまった。え〜ん(泣)、司馬さんの書く愛知県をもっと楽しみたかったのに。