袋小路からの脱出

 中日新聞からもうひとつ。同じ1月3日の紙面に歴史学者磯田道史さんの寄稿が載っている。特集である。「未来へのヒント 私の一作」というテーマで識者たちが「明日への歩みを進める支えになる一冊」を紹介していた。磯田さんは、「袋小路 どう脱出」と題して、司馬遼太郎の『花神』を推している。いいセンスだ。その内容も素晴らしい。どこぞの駄コラムとは比べ物にならん。

 冒頭に、新型コロナウイルスが収束したその先で「何を元に戻し、何を変えるか」を考えようと、言っている。そしてその参考に『花神』がうってつけだと書く。

《日本社会がしばしば陥る袋小路と、そこからどう抜け出したのかが巧みに描かれている》

 まさに磯田さんが言われるとおりで、『花神』には、旧態依然とした幕府、そして烏合の衆ゆえに混乱する薩長が争う混沌とした時代の中で、大村益次郎が、《西洋に学び「これまでの先例」より「役に立つか」を判断基準》にして日本のために国を変革していく。

 磯田さんは大村の時代の病理を「身分や先例で物事が決まること」、「組織に長くいるものが発言力を持つこと」にあると指摘している。これによって時代そのものが機能不全に陥っていたわけですね。

 これに危機感を抱いた大村たち、先の見える、状況を俯瞰できる人間たちが「先例主義」「世襲年功優先」を排除して時代を動かしていった。磯田さんは、まず大村の生きた時代を読者の前に整理しつつ、現在についてこう皮肉っている。

《高齢男性主体の政治は、江戸時代の身分制度と同じくらい奇妙だと思うべきです。》

 仰るとおり!

 我が意を得たり!

 大は、国政を牛耳る二階幹事長であり、彼のやっている支那外交は、田中角栄以降の「先例踏襲」であり、若手政治家の芽を摘むやり方は「世襲年功優先」でしかない。

 小といえば、数多の地方議会であろう。そこでは相変わらず昭和臭がプンプンする長老議員が議会を壟断しており、なかなか新人議員には発言の機会が与えられない。長老議員が「議会も終わったがね。どこぞのホテルでコンパニオンで一杯やろまい」と言い出せば、新人議員には拒否できない。「中止したほうがいいですよ」などと言おうものなら、速攻で村八分同調圧力で潰しにかかるというのがオーソドックスな地方のかたちであろう。

 でもね、そこに『花神』を熟読している議員がいれば少しはまともになるのではないか?と思っている。

花神』の主人公の大村益次郎は討幕後に暗殺をされるわけだが、現代で暗殺されるような心配はない。せいぜいパワハラを受けるくらいのことだわさ。だったら、旧態依然とした組織に立ち向かったとしても命までは取られない。やりたいだけやってやるというのも、選択肢の一つではなかろうか。

 国政の二階幹事長に立ち向かおうとしている若手国会議員よ、地方のミニミニ二階に立ち向かおうとしている若手地方議員よ、国家のため地域のため、ためらうことなく、出でよ!

 

 司馬遼太郎の言から引く。

《道は決して多端なものではない。まことに簡単なものである。ただ白と黒の区別があるだけである。心に慮りて白と思えば決然として行うべし。しばらくの猶予もすべからず。また心に慮りて黒と思えば断然とこれをおこなわないこと、これだけである。》