憂国忌

 昨日、潔くない横綱のことを書いたが、この人は潔かった。三島由紀夫である。ともあれ、自分の主張が聞き入れられないことを悟ると、さっさと腹を搔き切って死んだ。彼が心配したように、「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残」った。それを是認する人間とは「口をきく気にもなれなくなっている」と嘆いた三島は彼岸で嗤っている。

 でも三島さん、実はちょっと違ってきましたよ。「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な」までは合っているんですが、「抜け目がない」が間違っています。そこが「間抜けな」になってしまいました。

 例えば、丹羽宇一郎に代表される媚中経済人は、支那に尻の毛まで抜かれて、ゼニのためなら習近平のケツの穴まで舐めそうな勢いです。

 二階俊博を筆頭にした媚中政治屋は、習近平のご機嫌をうかがうためなら、国土すら売りかねません。

 

 24日に支那王毅外相が来日し、茂木外相と会談した。「日中のビジネス往来を再開」するんだとさ。支那が日本に対して秋波を送って来るときは、弱っている時だけである。そこに強かにつけこんで「話がしたいなら尖閣から手を引け!」と言うべきだろう。これが三島が生きていた頃の政治家にはできたから「抜け目のない」という評価になっているが、今は「間抜けな」対応しかできなくなっている。

 この現実を目の当たりにしたら、三島は七たび腹を切ったかもしれない。

 

 ワシャは言わずと知れた(知らないか/笑)司馬哲学の信奉者である。三島はその司馬と対極にいる人物だと思っている。しかし、その「死という絶対の観念」に対する冷徹な認識は、尊敬に値する。

 三島の著『葉隠入門』にこうある。

《病死は自然死であり、自然の摂理であるが、自発的な死は人間の意思にかかわりのあることなのである。そして人間の自由意思の極致に死への自由意思を置くならば常朝(葉隠の作者)は自由意思とは何かということを問うたのであった。それは、行動的な死(斬り死)と自殺(切腹)とを同列に置く日本独特の考え方であり、切腹という積極的な自殺は、西洋の自殺のように敗北ではなく、名誉を守るための自由意思の極限的なあらわれである。》

 まさに、このことを実践して50年前の今日、三島は市谷に散った。

 

 彼の潔さに比し、今の時代を造っている者どもの未練がましさはいかばかりであろうか。