この国のゆくえ

 入院中のコラムニスト勝谷誠彦さんの代打で、作家の東良美季さんが文章を書いている。愚策「出入国管理法改正案」にからめて「日本における労働環境」の話だ。
 これがいい内容だった。全文は出せないけれど、要点だけお伝えすると、「日本には大工、左官、鳶職など、職人を尊敬し重んじる文化がかつてあった。それが戦後の高度経済成長の中で生み出された学歴偏重、アメリカ型格差社、効率至上主義に破壊された」ことを憂いている。文末をこう結ぶ。
《デジタルという名の仮想空間でシステムを作る側ではなく、実際に手で触れて感じることの出来る商品を丁寧に作る職人気質や、買う人に対してフェイス・トゥ・フェイスでサービスする商人の精神、それらを美徳とする社会が今、瀕死の状態を迎えている。》

 同じことについて司馬遼太郎も警鐘を鳴らしていた。亡くなる直前に書かれた「日本の明日をつくるために」というエッセイで、バブルに踊る日本人を糾弾している。
《こんなものが、資本主義であろうはずがない。資本主義はモノを作って、拡大再生産のために原価より多少利をつけて売るのが、大原則である。その大原則のもとで、いわば資本主義はその大原則をまもってつねに筋肉質でなければならず、でなければ亡ぶか、単に水ぶくれになってしまう。さらには、人の心を荒廃させてしまう。》
 司馬さんの予言どおり、まさに日本はバブル以降「荒廃」の一途をたどり、東良さんの言われる「瀕死の状態」に陥っている。

 そして三島由紀夫がこう止めを刺す。
《私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。》
 たまたま、東良さんのエッセイの中に「ブラック企業化した新興の居酒屋やレストランチェーン」への取材で対応をした広報担当者の話があった。彼らは、効率のいい仕事をし、異常なほどに早口で用件を言う。せせら笑うような口の聞き方をして、相手の立場が「下」と見るやあからさまに軽んじる。相手の都合には厳しく、自社の都合に甘い。証拠が残らないことに関しては平然と嘘をつく……というような特徴を列記している。おお、これはまさに三島の言っている「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない」日本を背負う人材なのだなぁと思った次第である。

 夕べ居酒屋で友だちと軽く飲む。「セルガキ」も美味しかったが、後半に出てきた「きのこ炒め」が絶品だった。労働者の客が多い店だったので、味が濃い目に仕上がっている。最初に口にしたときには「ちょっと辛いな」と思ったものである。そこでご飯をもらって混ぜてみたら、これが美味い。ビールのつまみにちょうどよかった。「きのこ炒め」を混ぜているとはいえ白米というのを酒の肴にしたのは初めてだった。
 この「きのこ炒め」、今年の「七味五悦三会」に入ってくるものである。そう宣言したら友だちは笑っていたけどね。