さらに民主主義の限界

 

里山資本主義」という考え方で脚光を浴びた地域エコノミストの藻谷浩介氏がこんなことを言っている。

《「民主主義=多数決」は決められない政治のあだ花か》

「日経グローカル」でこう題した持論を展開する。

《「選挙に勝った者に従え。嫌なら自分が選挙に出てひっくり返してみろ」というのは、ネット評論の世界では定番の論調》

とし、永田町でも自治体でも、そういう原理で動きはじめていると指摘する。

 確かに元大阪府知事橋下徹氏などは、たびたびこのフレーズを口にする。原理原則はそのとおりなのだが、藻谷氏はこう警告する。

《多数決で全てを決めてうまくいくのであれば、法律も裁判もいらない。学術も倫理もいらない。何かあるたびに、その時の多数派の裁断に従えばよいのだ。》

 そう前置きをして、こう言っている。

《だが、そのような発想は、絶対王政での「王様」を「民衆の中の多数派」に入れ替えただけのこと》

 藻谷氏には一度直接お会いしている。ある企画で講演をお願いしたのである。新幹線駅前のホテルで実施したのだが、なにせ煙草の臭いに敏感な人で、喫煙室の周辺には一切近づきたくないとのことで、控室からホールまでの移動ルートを選択するのに苦労した記憶がある。そんなこんなで「細かいやっちゃなぁ」と思ったものだ。言っていることはいいことなのだが、性格で周囲を遠ざけるのではないか。

 脇道にそれた。煙草嫌いの藻谷氏は続けて言う。

《王様だけでなく、折々の多数派も間違える。日本の近年の最大の失敗ともいえる日米開戦は、民衆の支持を得た軍部が消極派の昭和天皇を制して行ったものだし、逆に終戦昭和天皇が決断して決めなければさらに先送りにされていた。》

 確かに、同盟国だったドイツも、ヒトラーを民主主義で選択している。ことほど左様に民主主義というものは極めて危うい。

 絶対王権をもつ独裁者を制御するために、人類は「憲法」なるものを考えだし、その上に権力者に内省を促す「ノブレス・オブリージュ」や「儒教」などの倫理体系を造り上げてきた。これはある程度の効果があった。明治以前の権力者たちは「武士道」という「ノブレス・オブリージュ」で自らをしばって気高く生きてきた。

 しかし、現代において、民衆という多数派権力者に、倫理体系で自らの行動を律するという高貴さは見当たらない。多数派による間違った決定が横行する所以でもある。

 

 まずは「大阪都構想」である。多数派が、全国でもトップクラスの有能な知事、市長の息の根を止めてしまった。それも投票日直前に反対派の役人と毎日新聞が仕掛けた「誤報」により多数派が形成されてしまったのだ。このために大阪はかけがえのないリーダーを失うことになる。

 そして「あいちトリエンナーレ」に関わる「知事リコール運動」である。高須クリニックの高須先生が癌と戦いながらの必死の署名活動も、大多数の愛知県民が動かず、否定の憂き目にあってしまった。愚者を権力の座から引きずり下ろす手段があまりにも手数がかかり過ぎるゆえの、民主主義を尊重し過ぎるために、都道府県単位では成功した事例がない。というか、実施されたのも大村知事ただ一人なんだけどね。

 さらに「アメリカ大統領選挙」である。ワシャは支那の台頭を考えると、変人であれトランプ氏が大統領であるべきだと思っている。しかし、アメリカの民主主義は、なんの特徴もない人のよさそうな爺さんを御輿として担ぐようだ。

 残念ながら、バイデン氏に投票をした人間の中に、東アジア情勢を念頭に置いて行動した有権者がどれほどいただろうか?たんに「トランプ憎し」だけの民意ではないかと思っている。

 支那のような独裁政権は、すべてのことを習金平が即決して行動に移している。この独断専行が武漢肺炎の抑え込みに有効だったようだ。経済の回復も独裁者は悩まないのでスピーディーに見えはする。

 その点で、民主主義は手間も時間もかかるし、多数派の専制というやっかいな問題にも突き当たる。しかし、今のところ「民主主義」にかわるやり方がないことも事実だ。

 ワシャの希望的観測は、民主主義に三タテを食らってしまった。う~む、こう考えてくると、呉智英先生の言われる「封建主義」がいいのかもしれない。