偶会(ぐうかい)

 司馬さんはやはりすごい。今朝のことである。午前5時頃に目が覚めた。布団から出るのもおっくうなので、布団の中でもぞもぞしていると、手が枕もとの本に当たった。ワシャの寝室も本だらけで、枕もと、布団の左右にざっと300冊くらいが散乱している。

 偶然、触れた本を引き寄せると、司馬遼太郎『以下、無用のことながら』(文春文庫)であった。分厚い単行本のほうは階下の書庫の棚にある。寝室の本は、この本も含めてほぼ文庫しか置かない。寝ながら読むと、単行本は凶器になるんでね。

『以下、無用のことながら』は何回も読み返している。でもね、久しぶりに読むと、やっぱりおもしろい。「本の話――新田次郎氏のことども」という5ページほどのエッセイがある。数多ある司馬エッセイの中でも、トップクラスで気に入っている一篇だ。

 以前にもこの日記に書いたけれど、新田次郎さんのご子息藤原正彦さんの生まれたときのエピソードが綴られている。

 生まれたばかりの赤子が、母乳を吸う様子を見て、それを「真空論」として科学的に分析しようとする新田さんの話をおもしろくアレンジしている。そしてこう書く。

《あの真偽さだかならぬ“真空論”に登場する新京時代の藤原家の赤ちゃんの著作を、七十を越えた私が夜陰夢中になって読んでいたことになる。》

 このフレーズで、現在の落ち武者のような藤原さんが、ベビー帽子をかぶって母乳をのんでいる姿がイメージされ、つい「クスリ」と笑ってしまうのだ。

 前回、読んだ時も、前々回も、さらに何十年前にはじめて読んだ時も、やはり笑えた。エッセイの末尾が笑った後にはさらに珠玉だ。

《この偶会のよろこびは、よにながくいることの余禄の一つである。同時に、本のありがたさの一つでもある。えらい数学者になられたあの“赤ちゃん”のよき文章によって、つまりは時空を超え、一九八七、八年のケンブリッジの町を――文明としか言いようのない人びとの秩序のなかを――臥せながらにして歩くことができる。数奇というのは、読書以外にありうるかどうか。》

 2日前に、藤原正彦さんの教養についての文章を引いたばかりで、寝起きに司馬さんの文章で若き藤原さんに偶会できるとは、まさに数奇である。