今朝のNHKのEテレで「日曜美術館」をやっていた。雑用を片付けながら見るともなしに点けていただけだから、チラチラと絵を確認するくらいで、解説などは聞いていない。ダビンチ、レンブラント、フェルメール、ルノワールがあり、ゴッホ、ムンク、ピカソという爆発した才能の絵も目につきましたぞ。その他の絵も出ていたけれど、見過ごしてしまった。
その中でルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」の解説を池波正太郎さんがされておられた。そこだけは手を止めて聴き入ったのじゃ。
「ルノアールの絵は楽しいね。笑顔があふれている。こういった絵がいいねぇ。人生は楽しくなくっちゃ、僕なんか365日のうちつまらない日は3日ほどしかない」
池波さんがおっしゃるとおり「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」は明るく楽しい絵である。庶民の集まるモンマルトルの屋外ダンスホールで、笑い嬌声を上げ、踊り回る男女を描いている。顔の判る登場人物はみんな笑顔である。これほど楽しい絵があるだろうか。池波さんはそう言っている。ワシャもそう思う。
池波さんの小説を読めば解かるけど、「鬼平犯科帳」も「剣客商売」も、その他の小説群にしても、底の抜けた絶望のようなものは感じられない。悲劇もあるけれど、その中に微かであっても希望が射している、そんな明るさが池波小説だと思っている。
先日、齋藤孝さんの新刊『極上の死生観』(NHK出版新書)を読んだ。タイトルのとおり「死生観」の本である。齋藤さんが、還暦を迎えて、あらためて「死」とは何か、「生きる」とはどういうことかを問い直した一冊だった。
齋藤さん、のっけに『論語』の「里仁第四」の「朝(あした)に道を聞かば、夕(ゆうべ)に死すとも可なり」を持ち出してくる。解説として「何かしらの目指すところがあり、それがかなえられたなら死んでもいいというパッションをもてたならいい。それが叶えられなかったとしても、常に到達を目指して前向きに進んで行くことが大切」と言う。
これは封建主義者の呉智英さんからも「論語塾」の中で聴いたお話だったし、「男はつらいよ」第16作に登場する住職(大滝秀治)からも、あのしわがれ声で「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」を聴いた。その声はいまだに脳裏に再生されるから、かなり強い印象を受けたんでしょうね。
おっと『極上の死生観』の話だった。
孔子の次に登場するのがヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』である。これは、アウシュヴィッツに送られたユダヤ人心理学者の体験記で、おそら「生」と「死」を考えるための極上の教科書だと思う。フランクルの言葉を引いておく。
《わたしたちは、おそらくこれまでのどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ》
若い俳優が自殺したニュースが流れている。彼がなにを考えていたのかは知る由もないが、ざんねんながら30歳という年齢では、あまりにも知恵がなかったに違いない。『夜と霧』は読んでいてほしいものだ。そしてせめて『極上の死生観』を読んでいれば、もう少し自殺に躊躇してくれたのでないかと思っている。
それに命を無駄に捨てるなら、せめて他者のために使って欲しかった。例えば、ウイグルではアウシュヴィッツより過酷な臓器摘出が行われている。民族浄化が行われている。それに抗議して、天安門広場で自分の身に火を放って死んだほうが、自宅で首を吊るより、はるかに世のため人のためになると思う。