タイトルは、呉智英・加藤博子共著『死と向き合う言葉』(KKベストセラーズ)から。
昨日、いつもの読書会があって、その課題図書がこれだった。思想家で封建主義者で評論家の呉さんと哲学者の加藤さんの珠玉の一冊である。今回はスペシャルゲストにお出でいただいたが、その名前は秘密です(笑)。
本の内容に入る前にまず表紙と帯について触れておく。
https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/852483
これね。
センターに縦に「死と向き合う言葉」とあって、その横に「先賢たちの死生観に学ぶ」とある。帯にはお二人の写真があり、その間に「悔いなく死ぬためには、どうすればよいのか?」「今こそ死を語り尽くす」とある。表紙の背景は「鳥獣戯画」の「葬式」の場面となっている。表紙の折込には加藤さんの「あとがき」の一部が抜粋され載っている。
「生きて死を見つめ続ける力を支えるのも言葉、死んでしまうという有限性の克服となるのも言葉であった・・・」
この「あとがき」がいいんですね。「あとがき」なんだけど、先に書いてしまうと、最後のフレーズで思わず「うるっ」ときたのだった。
《やがて呉先生にも死が訪れるだろう。だから今のうちに出来るだけ多くを語っていただこう(中略)やがていつの日か、先生は「じゃ、また!」と言って、颯爽と自転車で、孔子のほうへと走っていってしまうのだろう。その日まで、もっともっと言葉を。》
ワシャは幸運なことに、呉さんが自転車で「じゃ、また!」と言い、名古屋の街角に走り去るのを何度も目撃している。だからめちゃめちゃ具体的な映像として脳裏に再現された。それはあくまでもご自宅に帰る輪行であり、見送るワシャらも「先生、こけないでね」と笑って手を振っていたものだ。しかし、それが孔子のもとへとなるとこれは辛い・・・と想像してしまったのだった。
この加藤さんの「あとがき」は、呉さんのことを書いて秀逸である。ワシャの知っている「あとがき」の中でもトップグループに入ってくる。すんばらし~。
ということで、本の内容について簡単に触れると、カミュ、サン=テグジュペリ、ミヒャエル・エンデ、ニーチェ、ドストエフスキー、釈迦、孔子、荘子、イエス、平塚らいてう、宮澤賢治、ユヴァル・ノア・ハラリ、柳田國男、ノヴァーリス、小泉八雲、上田秋成、折口信夫、深沢七郎、ハイデガー、三島由紀夫、手塚治虫、水木しげる、宮崎駿、江藤淳、西部邁、ポー、大竹晋、岡崎次郎、本居宣長、荻生徂徠、沖田×華、カズオ・イシグロ、木下恵介、ゲーテ、小林秀雄、シェリー・ケーガン、親鸞、シュタイナー、平敦盛、高山彦九郎、谷川健一、谷崎潤一郎、つげ義春、橋田壽賀子、福沢諭吉、プレスリー、フランクル、法然、正宗白鳥、マルクス、ヤスパース、山折哲雄、ユング、オスカー・ワイルド、ビアズリーなどをネタにして、ご両所が「死生観」を語り尽くすというもの。随所に呉さん、加藤さんの知見が散りばめられ、時には皮肉が出たりして、とても面白いやり取りが繰り広げられている。
これらの先賢たちの言葉が、お二人の会話を追うことでじわりと効いてくる。基本的に弱虫なワシャは「死」を恐れている。「一人称の死」も怖いが、「二人称の死」も恐怖だ。だから曹洞禅を生噛りし、「死」に関する本を何冊か読んでみたが、ワシャの内面で「死生観」なるものが醸成されるようなことはなかった。要は中途半端な人間ということですね。そんなダメ男でも、この本を読んでみると、幾分か救われたような感覚があった。おそらく何度も読み返せば、さらに効能が増すものと思われる。
一つだけ、農婦の木村センの遺書を書いておきたい。
「一人できて 一人でかいる ハナのじよどに まいる うれしさ ミナサン あとわ よロしくたのみます」
字がまったく書けなかったセンは、死を目前にしたとき、小学校入学を控えた孫娘に字を習って、この遺書を残した。
この学のない農婦の「死生観」に、ワシャはたどり着くことができるだろうか。
読書会のメンバーも闊達な意見や質問が出て、所要の時間はあっという間に過ぎてしまった。その後、金山まで出て、遅い食事をとったのだが、そこでも「死生観」についての議論がやまなかった。
久しぶりに有意義な、楽しい会話ができたなぁ。