蕎麦

 食通だった池波正太郎が書いた『むかしの味』(新潮文庫)に信州蕎麦のことが出てくる。たまたま取材で長野に入って、そこで市役所の職員と知り合う。そのフレーズを引く。
《上田行が重なるうちに、私は、上田市役所の観光課にいる益子輝行さんという友を得た。この人は若いころから郷土の歴史にもくわしく、茶の湯、日本舞踊の名取りで、素人芝居の立女形、落語も講談もやるという、いまどき、めずらしい人なのだ。》
 ううむ、池波さんが信州真田家の取材をしていたころだから、昭和30年以前のことである。その頃でも「めずらしい公務員」と人間通の池波さんが言っている。益子さんのような方は現在では絶滅種と言っていい。

 居酒屋で同席して楽しいのは池波さんである。今年の2月25日の日記
http://d.hatena.ne.jp/warusyawa/20170225
にも、飲むなら「池波さん」と書いているでしょ。
 信州の片田舎に、池波さんが取材に来る。そのたびに呼び出されて、馬肉や蕎麦を当てにして一献酌む……池波時代小説のファンとしては、益子さんが羨ましい限りですな。
 この二人がいそいそと通ったのが上田市の「刀屋」という蕎麦屋

 信州はなにしろ蕎麦どころで、外れはないといってもいいくらいだ。上記の「刀屋」も「信州特選そば巡り」に出てくるところなのだが、なんと言ってもダントツは松本の「野麦」である。信州の中でも松本は、名高い老舗が数多くあることで有名。その中でも異色を放っているのが「野麦」である。なにしろメニューはざるそばしかない。九割の細切り、これを熱燗でキューッとやる。これがたまりませんね。とにかく蕎麦屋の中の蕎麦屋ってぇ感じなので、飲み物もお茶と酒以外はない。あ、ビールがあったかも。なにしろそういう店なのでぜひ蕎麦を食いにいってもれえてぇ。それ以外を期待するのはご法度ですぞ。
 この店は江戸風俗研究家でソ連の代表だった杉浦日向子さんも全国名店101選で「野麦」を推薦している。ちなみに「ソ連」というのはもちろんソビエト連邦ではなく、「ソバ好き連」の略である。杉浦さんの言を引く。
《まかない、あるいは、なりわい、といった、しごくあたりまえだけれど、ついおざなりにしがちな、日々のいとなみを、久々に思いださせてくれた店だ。》

 ああ、蕎麦が食いたくなってきた。今日の昼はざるをつるつるっといきますか。