前段の400字は要らなかった(笑)

《「あいちトリエンナーレ」、2022年から名称変更へ。仮称「新・国際芸術祭」でイメージ一新狙う》

https://news.yahoo.co.jp/articles/65527dfc4d35c1becffdfe3bd02ca6697e31e5aa

 そういうことではないんだな、大村知事。あの「色のついた展示会」の総括が1ミリの進んでいない状況で・・・愛知県知事が名古屋市長を訴えている状況で・・・高須院長からリコールを起こされている状況で、なにを喚いていることやら(笑)。

 泥田に家を新築するのもいいけれど、土地改良もせずに、基礎も打たずして、どの炉中に柱を立てていくようなものである。具体的な検証を一切せずに、名称変更するばかりで2022年を迎えても、イメージの一新にはつながらない。

 今回の大失敗を次につなげていこうと思うのならば、とにかく知事のメンツなんてものはどうでもいい。そんなものはかなぐり捨てて、何が問題だったのかをきっちりと検証すること。そこに言い訳もごまかしもまったくいらない。

 

 まぁくだらないニュースの話はこれくらいにして、このところ読んでいる月刊誌にいい記事が並んでいるのでそれを紹介しておく。『前衛』(日本共産党中央委員会)は、まったく見るべきものがない。さすが色付きもここまで極まると、普通の市民には読めないな(笑)。『潮』(潮出版社)は、丹羽宇一郎田原総一朗の対談が際物だ。「若者よ、ピンチこそチャンスだ!」と支那べったりのジジイと女子アナに言い負かされた老害に言われたくないよ、若者は。

 申し訳ありまヘン。ヘンなほうから先に書いてしまいました。

文藝春秋』の7月号がおもしろかった。なんといっても脚本家の倉本聰さんの《コロナ大戦・考 抜けるような本物の空の蒼に》と題した寄稿がいい。

 倉本さんは、今回のコロナ禍を「戦争」と言い切って、孫子の兵法をもって解き明かそうとしておられる。

「算多きは勝ち、算少なくは勝たず」

「百戦百勝は善の善なるものに非ず」

「彼を知り己を知れば、百戦して殆うからず」

「善く戦う者は勝ち易きに勝つものなり」

「戦いは、正を以って合し、奇を以って勝つ」

 などなど、倉本さんは武漢ウイルスとの闘いの方法を彼の国の兵法をベースにして解き明かしてくれた。これは勉強になったわい。

 その上で、警告を発する。倉本さんは「自分はパチンコ屋には行かない。それはさしたる哲学があるわけではなく、趣味ではないから」と前置きをしつつ、こう指摘する。

《近くのパチンコ屋が休業したからといって、他県にまで出かけてもどうしてもやるというその執念には僕は一驚する。これはもう立派な中毒患者である。》

 これらを「遊興の民」と決めつけ、続けて言う。

《毎晩ネオンの下に出ていって酒にひたるのも遊興の徒である。そういう人間が当たり前のように増えて、エネルギーを使って不夜城をつくり、それもまた立派に今の日本の経済社会を廻しているというなら、これは明らかにやり過ぎではないか。》

《際限ない欲望の潮流に流され、ブレーキもバックギアもついていないスーパーカーに乗って、ゴールを切ったら又次のゴール。ゴールのないマラソンを走り続けて、経済社会はどこへ行くのだろう。》

 北海道富良野から環境問題を考える倉本さんならではの考え方であろう。環境問題ということで言えば、ワシャは倉本さんと若干違った考え方を持っているものであるが、こと武漢肺炎禍に関して言うならば、倉本さんの考え方に賛同をする。

《そう思うと今回のコロナ騒ぎは、自分を見失った我々人類への、サムシンググレートの怒りである気がしてくる。》

 偉大なる何者かが、PM2.5の飛散を防ぎ、丹羽宇一郎の好きな支那に蒼い空を取り戻した。

 その他にも、エマニュエル・トッドの《犠牲になるのは若者か、老人か》の歴史人口学の視点からの武漢ウイルス禍の分析もおもしろかったし、藤原正彦磯田道史出口治明などの達者な書き手で埋められている。どのかたの論も楽しく拝読をしたのだが、その中でも、出口さんの《リモートが「オッサン文化」を破壊する》は興味深く読ませていただいた。

 疫病が歴史の転換点になる・・・というのは、どの識者も口にすることだが、出口さんはそれを身近な仕事場に持ち込んで分析をしてみせる。テレワークなどの進捗を急ぎ、昭和の風習である「年功序列」などの息の根を止めようというものである。

 ワシャはある会議でこの「年功序列」に関して一席ぶったものであるが、これはさらにそれを補完する理屈をいただいた。次の会議が楽しみだのう(笑)。

 そうそう、『正論』もおもしろかった。評論家の八幡和郎氏の《パフォーマンスだけの首長はいらない》とか、門田隆将氏の《伝わらなかった警鐘 事実見ぬメディア》などは読みごたえがあった。

 

 以前に某省の事務次官の部屋を訪なったことがある。その事務次官、ビーチ前川のような愚物ではなく、本物の官僚で日本国を憂える国士と見た。その人の執務机の横には本が積み上げられており、難しい経済論の本か何かの間に、雑誌も何冊か目に付いた。一緒にいったメンバーは事務次官と話すことばかりに熱中していたが、ワシャは室内を物色する方に力点を置いていたんですね。

 そこに結構読み込んだ雰囲気の『文藝春秋』があった。おおお、日本の行政のトップの殿上人でも『文藝春秋』なのか・・・と感心したことを記憶している。