風と共に去りぬ

 ワシャは映画小僧だった。そもそも近所の映画館の館主と祖父が仲がよかったので小学生の頃からタダで映画館に出入りをしていた。だから映画館が遊び場だったと言ってもいい。でもね、小津安二郎溝口健二は、小学生には面白くなく、やっぱり怪獣映画やアニメじゃないと真剣には観なかった。ようやく名作を座って鑑賞するようになるのが小学校の高学年になってからでした。それから中学校にかけての数年間にとんでもない名作に出くわしている。

ローマの休日』、アン王女演じるオードリー・ヘプバーンには魂を抜かれたままである。

風と共に去りぬ』のスケール感、臨場感、重厚な人間ドラマ、そしてアメリカという新興国家の血なまぐさい歴史など多くを学んだ。

サウンド・オブ・ミュージック』。ナチスドイツの支配下におかれたオーストリアの一家の必死の逃避行が歌声とともに繰り広げられる。

エデンの東』。カインとアベルの聖書の物語を現代に持ち込んだスタインベックの名作小説の映画化で、ワシャが観た時には、主人公のキャルを演じるジェームズ・ディーンはすでに他界していた。

 などなど名作映画は数知れず、そしてガキが観てもおもしろかった。勉強になった。 ということを前提に「胡散臭い」話をする。

《映画「風と共に去りぬ」を配信停止 人種差別表現めぐり》

https://www.asahi.com/articles/ASN6C2W6QN6CUHBI00J.html

 黒人が白人警官に暴行されて死亡した事件の余波である。「人種差別である」との批判が出て、1939年公開の映画「風と共に去りぬ」の配信を停止した。

確かに映画の中に黒人奴隷が何人も登場する。代表的な奴隷役としては女中のマミイである。印象的なシーンは主人公のビビアン・リー演じるスカーレットがドレスを着るシーンであろう。体格のいいマミイが細いスカーレットのウエストをコルセットでさらに絞るというシーンで、見ようによっては黒人が白人を虐待しているようにも見える。

ワシャはガキの頃からアホだったが、それでもこの関係性は理解できた。スカーレットがご主人さまの娘で、マミイは召使(奴隷)であるのだなぁ・・・とぼんやりとですけどね。

それでもアメリカの南北戦争があったことは知っていたし、それがリンカーン奴隷解放運動に端を発していたことも念頭にあった。

 でもね、マミイや黒人労働者の風景を描くことは、実際にその時代を描くことであって、「人種差別表現」だからすべて封印してしまうというのは、あまりにも短絡的であり、実は「人種差別する者」とちょうど対極に位置する「人種差別を利用して差別をする者」の考え方ではないだろうか。

 極右と極左は一致する。円を描いていただきたい。頂点を極右として書き始め、右へ円を描きすすめ、4時から8時くらいまでが中道ですわな。9時から10時、11時と左の弧を描いて、12時に極左に達する。そこで極右と一致する。

 なにを言いたいかというと、極端に走る者は右であろうと左であろうと最果てにいるということ。

 マミイの存在を「確かに奴隷制度がありそれは悲しい時代であった。しかし映画は名作であって、この映画に黒人を貶めようという作為はないと今でも思っている。

 角を矯めて牛を殺すな。今、くすぶりだしているアメリカの人種差別、この背後には大きな反トランプ、延いては反自由主義、反民主主義の勢力があるような気がしてならない。

 

 日本で左の人権主義者たちが映画に対して「差別だ」とか言い出したら、それこそ国民映画の『男はつらいよ』だって上映できなくなる。寅次郎は差別的な言動を吐くし、そもそも寅次郎自身がヤクザという真っ当な社会からは切り捨てられている存在として描かれているのだから。

 過去にさかのぼって、現在の価値観で、「過去」を裁くことを止めないか。誰かが言っていたが、そんなことをすれば正しい歴史でドラマや映画を創ることが不可能になってくる。この間も日記に書いたけれど、戦国時代に殿様が正妻に対して、妾腹の嫡男が生まれたことを絶対に言い訳しないし、そんなことは家の存続を考えれば当たり前だのクラッカーなのだ。信長が帰蝶におずおずと言い訳をするか!

 時代が違うということをきっちりと子供たちに教えなくてはいけないし、その程度のことを許容できないような人間に育てると極右や極左に成り果てるぞ。

 なにごとも極論に走らず、いい塩梅というのがいい。名作映画は名作であり、それを鑑賞するのに一々目くじらを立てているヤツ、そっちのほうが恐いわ。