ワシャの書庫を眺めると、いくつかのジャンルや作家に分けられている。まず、パソコンの背後にはレファレンス系の辞書がある。その西の棚(窓側)は倉本聰など脚本家の書籍、シナリオが並んでいる。東側の棚の1本目は「WiLL」「Hanada」「文藝春秋」などの月刊誌、2本目、3本目は歴史、4本目が神道、仏教、儒教系の書籍が犇めく。
そんなことはどうでもいい。要はそんなふうに本が並んでいるのだけれど、やはり著者、作家には多寡があって、どうしても好きな作家が多くなる。多いのは、前述したけど「倉本聰」。ダントツなのは「司馬遼太郎」。司馬さんに関してはほとんど全て網羅してあるし、司馬さんのことを論評した本も手当たり次第買っている。まぁ司馬教の信者だから仕方がない(笑)。
日本の論者だと「谷沢永一」、「西部邁」、「曽野綾子」、「西尾幹二」、「日垣隆」、「福田恒存」、「山本七平」、「渡辺京二」などの著書が多い。
おっと「勢古浩爾」の本もずらりと並んでいる。2000年に出版した『わたしを認めよ!』(洋泉社)くらいからだから、かなり初期からの読者と言っていい。勢古さんは、小難しい内容を噛み砕いて、軽く単純に教えてくれる。そして少し投げやりなところ、斜に構えたところなどもワシャの嗜好に合った。だから勢古さんの本は書店で見かければ必ず買うことにしている。
それが、昨日あったんですね。豊田の大きなスーパーの3階に書店があって、そこの新書コーナーをうろついていたら見つけたんですぞ。
『それでも読書はやめられない』(NHK出版新書)、帯には「古希を過ぎて総括する、読書人生の終着点!」とある。
家に帰って、風呂に浸かりながら読んだ。新書を読みながら何度も湯船で笑ってしまった。そして同じくらいの回数「ううむ」と唸らされる。やはり勢古さん外れがない。
失礼を覚悟で申し上げれば、勢古さんの天邪鬼さ、変わり者具合が、ワシャのそれと近いのである。例えば、「死ぬまで読書」と題された「まえがき」で、こんなことを言う。
《世間で楽しいとされていることの相当部分が除外され(中略)、全然楽しいと思えないものがいくつかある。》
ここで勢古さんは「わたしは自分では偏屈でも頑固でもないと思っているが」と前置きをしているけれど、そういった言い訳も含めて、シンパシーを感じる。ワシャも、人から天邪鬼で変わり者だと言われているし、どうも世間で楽しいと思われていることが苦手だ。
こんなフレーズもあった。
《世の中には「本の虫」(出口治明)や「本から生まれた本太郎」(渡辺京二)を自称するような凄い読書家たちがいる。松岡正剛や佐藤優もまた凄まじい読書家だ。》
勢古さんですら、ワシャから言わせてもらえれば見上げるような読書家なのだが、その勢古さんが「凄まじい」という連中は如何ばかりであろうか。
ここでね、出口治明さんの名前が出た。3月19日の日記で、出口さんの新刊の話をして、感心したばかりだったでしょ。だから勢古さんの本で出口さんの名前に出くわすと、本(知識)がつながったようでうれしい。
また昨秋の大読書会で、「そんな本読んでいるの?」と、仲間にさんざバカにされた芦田愛菜さんの話も取り上げてあって、頼もしい応援をいただいたような気がしている。勢古さんだって、愛菜ちゃんの本を読んでいるのだ。今年の秋の読書会では、このネタで反論をしてやろうっと。
そしてなによりワシャの好きな(笑)元伊藤忠商事の会長の「丹羽宇一郎」について触れているところではまってしまった。丹羽宇一郎『死ぬほど読書』(幻冬舎新書)で展開される読書論を挙げて批判をする。丹羽の言う「読書は、創造する力、感じる力、無尽蔵の知識や知恵を与えてくれる」という意見に対し、「わたしには明言する自信がない。そんなことを感じたこともない」と反論している。
勢古さんは、丹羽のように読書を大上段に構えるのではなく「単純におもしろければいい」と言っている。
ワシャは、丹羽宇一郎という親支那経済人を端から信用していないので、おそらく見る目、読む目にバイアスがかかっていると思っている。しかし『死ぬほど読書』を読んでも、上から目線ばかりが気になって、心に響くものには出会わなかった。それもワシャの偏屈のせいだろうと思っていたが、勢古さんの「丹羽宇一郎の項」を読んで、やっぱり勢古さんも、功も名も遂げたじいさんを「嫌な野郎」だと感じていることを再認識でき、ホッとしましたぞ。
そんなこんなで、とてもおもしろい本でした。
「まえがき」で、《本書を読まれる方が、読み終わったあとで(読み終えられることを願うが)、もしも「ああ、おもしろかったよ」と思っていただけるようなら、素直にうれしい。》と、言われている。そういった本に出会ったこっちもうれしい。