ワシャは「井戸の茶碗」という落語が好きだ。昨日、NHKのEテレ「日本の話芸」で上方落語の桂文華が演ってくれた。この噺は、実直な正直者が報われる名作で、聞き終わってほのぼのとする。この噺ばかりはどの噺家が掛けても聴くことができる。つまり物語が上質ということだろう。
この噺、正直者と評判の屑屋の清兵衛が狂言回しとなって、裏長屋に住する千代田卜斎という浪人者と、土浦藩(江戸落語では細川藩)家臣の高木作左衛門の間で起こる騒動が微笑ましい。
卜斎は落剝し18になる一人娘と貧乏長屋に住んでいる。そこに清兵衛が通りかかり卜斎から薄汚れた仏像を200文で引き取る。後にそれを高木が買い求め、ぬるま湯で磨いていると仏の体内から50両という大金が出てくる。「仏像は買ったが腹の中にある小判までは買ってはおらぬ」ということで、清兵衛に「千代田殿に返すように」と金を渡す。
ところが卜斎、「体内の金子に気が付かなんだはこちらの落ち度、買われた以上は仏も体内の金子も購入者のもの」と言い張り、頑として受け取らない。
何回往復してもらちが明かないので清兵衛は大家に相談する。大家は金を3つに分ける。20両は高木、20両は卜斎、10両は清兵衛ということにする。高木は嫌々ながら納得をしたのだが、やはり卜斎は「貧するとはいえ武士である。施しは受けぬ」と取り付く島がない。ここで大家は折衷案を出す。
「では、千代田様のお手元にあるお品を、なんでもよろしいのですが、20両で買わせていただくということで手を打ちましょう」
これには卜斎も頷かざるを得ず、手元にあった古茶碗を差し出すのであった。
これがまたとんでもないことになる。小汚い茶碗は「井戸の茶碗」という高麗渡りの名品で、値は天井知らず。この茶碗を目にした土浦藩主はこれを買い求め、高木に300両を下しおかれた。ハハハー。
また、この300両のやりとりで清兵衛は両者の間を駆け回るということになるのだが、結末も見事としかいいようのないハッピーエンドで、この「高楊枝」を銜えてやせ我慢をする武士たちに心から拍手を送るのであった。
ラストは感動的なので、ぜひCDでもDVDでも、もちろんライブでもいいのでお聴きください。
そこから思い出した。
昨年の12月6日の朝日新聞「耕論」で「皇族という人生」とかなんだかお節介な特集をやっていやあがった。
《天皇即位で国民の間にお祝いムードが広がりました。ただ天皇や皇族一人ひとりの幸せや自己決定権はあまり考えられてきませんでした。皇族に「生きづらさ」はないのでしょうか。》
朝日がこう問い、3人の人間がそれに答えている。
その中に映画会社勤務のお嬢さんが寄稿していた。
「生きづらさ 美徳なんて」と題したこのネーチャンの主張はこうだ。
《生きづらささえ、皇族は公言しないのが美徳、となっていないでしょうか。日本では近年、厳しい労働環境やハラスメントなどによる生きづらさを口に出して変えていこう、という流れがある。皇族の人たちの生きづらさも、みんなで議論すべきだと思います。》
勝手に思ってろって。
いいか、ネーチャン、千代田卜斎にしろ高木作左衛門にしろ、堂々と金を懐にいれれば生きづらくなく生きられるんだ。しかし、そうはしない。清兵衛だって、どっちにも話をして、聞き入れられなければ「それなら俺が」となってもいいところを、けなげにも走り回るのである。解らねえだろうな。テメーの些細な不満をつねに「体制がわるい」「上が悪い」と人の所為ばかりにしている左巻子にはね。
彼ら3人の生き方に「生きやすさ」なんてものはないんだ。たかだか200年前の武士、町人にだって、あえて生きにくさを生きる矜持があった。もちろんそれは皇室を頂点とする日本社会の美徳である。
たしかに千代田や高木のもつ美風はすたれてきたと思う。でもね、いまだに「井戸の茶碗」が庶民に受けるのは、やはり彼らの生き様が格好いいからに他ならない。
「武士は食わねど高楊枝」
それをまさに体現していただいている皇族の方々に対して、いらぬお節介は止めるがよろし。