志の輔の演目である。ワシャは聴いたことのない噺だった。実際に三省堂の『落語ハンドブック』には集録されていない。興津要の『古典落語』にもなかった。ようやく見つけたのは青蛙房の『落語事典』だった。早朝からそんなことで書庫をかき回しているんですね(笑)。
その解説には《人情ばなし。現志ん生は「親が囲碁の争いをしたから、娘が娼妓(将棋)になった」というサゲをつけている。》とある。
ほう、これがサゲか。志の輔のはなんだかサゲがつかぬままに終わっていた。志の輔の噺は、全体に緊張感があって、人物描写も見事である。でもサゲのところはぼんやりとしていた印象だった。
元は講釈から来ているというので、おそらく落とし噺になっていないものを、なんとか落語にしたような感じの噺なので、そんなかんじなのかなぁ。
ネットで調べてみると(もう『落語事典』なんかよりネットのほうが先へ行ってしまったんですな・泣)、元の話は、身を売った柳田の娘と、その原因をつくった商家の主が一緒になり、その息子を柳田家の跡取りにするという話なのだそうだが、そっちのほうが人情噺としてはいいような気がする。
物語はこんなんですわ〜。
伊勢藤堂家の家臣柳田格之進は、正直さが裏目に出て上司に疎まれて主家から放逐され浪々の身となる。妻に先立たれ娘のおきぬとともに貧乏長屋に身を寄せている。真面目ゆえにその日の米にも困る暮しぶり。それでも武士の誇りをもちまじめな人柄は寸分も変わらない。その人柄を慕う質屋の万屋源兵衛とともに碁を打ち酒を酌み交わすのが、唯一の楽しみとしている。
(志の輔はこのあたりの詳細を省略して語らない。突然、番頭が源兵衛の座敷に飛び込んでくるところから始まる)
番頭が「柳田様と碁を打っている最中に渡した50両がなくなった」と言うのである。番頭は柳田を疑うが、源兵衛は「あの方に限ってそういうことはない」と断言する。しかし、番頭、源兵衛に内緒で柳田の長屋に出かけて50両の行方を問いただす。
「いやしくとも武士に対し、何ゆえあってかような疑いをかけるか」と激高する柳田に、番頭は「大金が消えたのは事実だから奉行所へ届ける」と言う。身に覚えのないことではあったが、不名誉な奉行所の取り調べを受けることを潔しとはせず、柳田は「明日までに金の支度をする」と約束するのだった。
柳田は疑いをかけられたことを恥とした。娘のおきぬには伯母のところに手紙を届けるように命じ、その間に切腹をするつもりだった。それを察したおきぬは吉原へ身を落として50両を工面すると言い出す。
「盗んでないのだから、いずれ50両は見つかる。その金が出てきたらそれで身請けしてください」
なんと健気な娘ではあ〜りませんか。
結局、説得されて柳田は娘を売り、50両を工面した。その金を受け取りにきた番頭に「あくまで自分は盗んでいない。しかし、武士の対面でこの金を渡す。ただし、もし50両が見つかった場合は、源兵衛と番頭の首を貰い受ける」と言い、端から柳田を疑っている番頭は気安く首を差し出す約束する。
番頭は店にもどり源兵衛に事のあらましを報告する。源兵衛は差し出た真似をした番頭を烈火のごとくに怒って、番頭の無礼を詫びようと柳田の長屋に出向くが時すでに遅く家は引き払われた後だった。しばらくの間、源兵衛は柳田の消息を探させたが、時が過ぎ、忙しさに紛れて次第に忘れられ、やがて 年の瀬となった。
年末の大掃除で、離れの額の裏から無くなった50両が見つかる。源兵衛が小用の際に自分がそこに隠したことを忘れてしまったのだ。
(普通、そんな大金のことを忘れるかい!今でいえば1000万円の札束みたいなものですぞ)
現兵衛は店の者に年越しの準備を取り止めて大急ぎで柳田を探すように命じる。
年明け正月四日、番頭は年始回りの帰りに湯島天神の切通しで、身なりの立派な武士から声を掛けられる。それは柳田格之進であった。柳田は藤堂家への帰参が叶い、只今は江戸留守居役に出世していたのであった。番頭は震えながらも、50両が見つかったことを話し詫びる。これを聞いた柳田は「明日、店へ参るから首を洗って待て」と伝え去っていった。
番頭からその話を聞いた源兵衛は覚悟を決め、翌日、番頭を無理に外に使いに出すと、死を覚悟して柳田を丁寧に迎える。そこで源兵衛は「私が柳田様への取り立てを命令した」と番頭を庇った。番頭の方も源兵衛の行動を見越して使いに出ずに隠れて話を聞いていた。柳田と源兵衛が対峙する座敷の飛び込むと「取り立ては自身が勝手にやったことだ」と訴える。主と番頭の言い分を聞いた柳田は刀を抜くが首ではなく碁盤を真二つに斬った。
そしてサゲにつながっていく。このサゲが講釈と落語、噺家によって演じ分けられているということ。
ワシャ的にはしっかりと説明しきってハッピーエンドで幕にするほうが人情噺としてはいいと思う。