長政と又兵衛

 昨日のつづき。
 後藤又兵衛の逸話はいろいろと残されている。例えば「城井谷(きいだに)城の敗北の話」というものがある。
 豊臣政権下で官兵衛は九州は豊前中津18万石を賜った。豊臣譜代の多くが九州各地を治めるために配置されたのだが、中央で威力のある千成瓢箪も九州まではなかなか伝わらない。そのためにどこの国も治まりがつかなかった。中津周辺も同様で、新領主の黒田家と地生えの侍たちと対立することになる。
 この時、嫡男の長政(松寿丸)が張りきった。「地侍の拠点となっている城井谷城を攻めよう」と言い出した。これについては、又兵衛たちが「時期尚早」と反対を唱えたが、逆に又兵衛に対抗心を燃やして城攻めを敢行した。結果は大敗北であった。
 このことを恐れ入った長政は、頭を丸めてある寺に謹慎した。長政に従った上級武士たちは一様に頭を剃りこぼち出仕の遠慮をした。中津中に坊主があふれかえったと言っていい。
 又兵衛も城井谷城戦には家老として従軍している。城攻めに異を唱えてはいるが、敗北の責任もある。しかし又兵衛、頭を丸めるようなことはしなかった。そのことを同輩が責めると「およそ合戦に敗けるも勝つも、これは戦(いくさ)の習いである。敗けるたびに頭を剃っていれば、武士たる者、髪のはえるときはござらぬよ」と言い切った。
 仮にも長政は又兵衛の主筋である。重臣とはいえ、家来にこれを言われてはたまらない。その上に、これを聴いた官兵衛が、又兵衛を褒めたという。これまた長政、立つ瀬がない。
 慶長9年、黒田官兵衛が死ぬ。長政を抑えていた重しが取れた。それはそのまま、又兵衛を支えていた柱がなくなったということでもある。官兵衛の死後、2年で長政と半兵衛はこんなことで衝突をする。
 又兵衛の息子は近習として長政の近くにいた。ある時、長政は能楽師を招いた。その際に、又兵衛の息子に鼓を打たせたのである。これに又兵衛は激怒した。「一城をあずかる者の子に、技芸者の真似をさせるとは、部門の恥である」この後に昨日書いた「士はおのれを知る者のために死すという。あなたのような主人に仕えて、なんの楽しみがあるか」と言って、長政を見限って黒田家を退転する。
 長政にしてみれば、たまたま近くにいた小姓が鼓の名手であったことから、何の気なしに鼓を打たせたとも考えられる。だが、父親を快く思わぬゆえに、倅に対し心ない仕打ちをしたとも見える。こればっかりは資料が少ないのでなんとも判断がつかないけれど、二人の生き様をみれば、おおよその推量はつく。
 長政は、関ヶ原の合戦前夜に小器用に立ち回り過ぎた。また、豊臣家に対する恩を見失っているところも評価が下がる。それに対し、又兵衛の武士としての潔さは、後世に残された数々のエピソードに詳しく、長政の追随を許さぬものがある。例えば葦津珍彦などは、その著書の中で高い評価を与えている。冷静に史実を眺めてみても、どうやら軍配は又兵衛に挙げざるをえないか。