エースを出せ!

 作家の日垣隆さんが『エースを出せ!』(文藝春秋)で、「天声人語」の作文力を「中学生以下」と指摘しながら「コラムの要諦は、オリジナリティと意外性にある。表現力、構成力と取材力も当然必要だ」とアドバイスをしていた。それが2002年のことだったから、かれこれ17年も「天声人語」は地に落ちたまま、しかしプライドだけは肥大して、子供たちに「書き写し」を強いている。書き写しをした子供たちは絶対に国語力を落すという、おそろしいことを朝日新聞はやっている。

天声人語」ネタをこれで3日続けているわけだが、とにかくあまりの酷さについつい目が言ってしまうんですな。『エースを出せ!』の中で、日垣さんも《最近の「天声人語」は、一度読みだしたら病み付きになる。》と言っておられた。それほど下手さが癖になるのである。
 今日の「天声人語」も終わっている。引退から一日遅れて「稀勢の里の引退」をネタにしている。おそらく昨日の紙面に載せたかったんだろうけど、当番じゃないから一日遅れてしまった。残念だったね。
 新聞の1面コラムなんて旬が命だと思っている。ネットで瞬時に情報が飛び交い、テレビがいち早く報道をしている現在に置いて、1日の遅れは新聞というメディアの粗を見せるだけで、いくら当番制だとはいえ、もう少し考えなくちゃ部数はどんどん減っていくばかりだろう。
 内容は目も当てられない。冒頭に持ってきたのは《相撲はどうして「国技」なのか》という疑問だった。でもね、これはこのコラムを書いた担当が知らないだけで、稀勢の里の引退を嘆く相撲ファンなら誰もが知っている。最近はNHKや他の局でも報道されていて、明治時代に勝手に「国技」を相撲場に付けて「国技館」としたというのは結構有名な話。「意外性」のまったくない「起こし」で、つかみにもマクラにもなっていない。
「承」は「名前が国技館でなければ、相撲が日本の国技というこだわりがなかったかも……」など、数点の素材が並ぶ。これも、ほとんど昨日、一昨日のテレビやネットで語り尽くされている素材んばかりなんだけどね(トホホ)。
 そして「結び」の文章である。
《引退会見の「悔いなし」との言葉に、逆に無念さを感じる。それもこれものみ込んで、いい親方になってほしい。》
 ここで天声人語くん、稀勢の里の「悔いなし」という言葉に引っ掛かった。う〜ん、だったらそこのところをもう少し掘り下げてみるのも手だったと思う。16日の引退会見を見た人が「あれは『北斗の拳』のラオウが死ぬ間際に言った名科白から採ったのでは?」と思っている。実際に、翌日にはそういった質問が記者から稀勢の里に投げられている。
 そこは森羅万象に通暁したコラムニストの荒垣秀雄氏や深代惇郎氏の末裔ではないのか?ラオウの置かれた状態と稀勢の里の心理分析までして、なぜ「悔いなし」と言い切らねばならなかったのかを解説してみせろよ。48時間も調査・取材する時間があったんだから。