本との出会い

 正月早々、「福袋」のニュースがかまびすしい。
《平成最後の福袋ににぎわい 名古屋の百貨店で初売り》
https://mainichi.jp/articles/20190102/k00/00m/040/081000c?inb=ys
《平成を食品で振り返る「福袋」も 関西の百貨店》
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190102-00000022-mai-soci.view-000
 とかね。

 基本的にワシャは「福袋」が嫌いだ。なにが入っているのか判らないのに、少しお得だからといって、それに手を出すという感覚は持ち合わせていない。最近は透明袋になって中身が見えるものや、端から、何が入っているのか明示してあるものすらでているという。でもね天邪鬼はワルシャワの触手は動かない。
 今朝の「天声人語」の導入部も「福袋」だった。天声人語氏、ビニール袋製の福袋に触れて、「ワクワク感は減りつつある」と書いている。そして、最近の図書館で流行し始めた「本の福袋」を取り上げて、こう言う。
《表紙が見えないように包装し、未知の本との出会いを誘う。》
 天声人語氏によれば、兵庫県宝塚市の西図書館に取材をしたのだそうな。ワシャの町の図書館でも何年も前から「本の福袋」をやっていて、毎年、大好評だった。東京からそんな遠くまで行かなくても、愛知県あたりでもやっているのに……。

 ワシャは本来の「福袋」には何の興味もないけれど、「本の福袋」については、全国の図書館で実施すべきだと思っている。そのあたりも天声人語氏に語ってもらおう。
《考えてみれば、子どもにとって本との出会いは、いつも福袋のようなものだ。たまたま家にあった本、学級文庫にあった本、友だちが貸してくれた本。何が出てくるか、どんな豊かさを与えてくれるのか、開いてみるまでは分からない。》
 これは結構大事なことで、大人になっても偶然の出会いというものは貴重だと思っている。
 ワシャはあまり読書家ではない。ワシャの自宅の書庫を知っている人には「なにを嘯いているのだ」と言われるかもしれないが、読書家というよりも蔵書家なのだと思っている。とにかく書店や古本屋をのぞいては、気になる本を手当たり次第に買って、書庫に詰め込む、それが楽しくてやっている。
 一度に何十冊と買うこともあって、買った本は一通り目を通し、付箋を打ったりして、棚に収めることになる。それから5年10年とそこで熟成されることもままある。

 先日である。ネットの番組を見ていて、江崎道朗さんという評論家を知った。発言が具体的で、地に足のついた論客だなぁと思った。でも、なんとなく名前に憶えがあった。もやもや感を抱きつつ、番組を見続けていたが、気になってネットで江崎さんの著書を検索してみた。
コミンテルンの謀略と日本の敗戦』(PHP新書)
 おおお、この本の著者であったかいな。この本ならワシャの書棚に挿してある。付箋もビシバシと打ってあるではあ〜りませんか。その隣には同著者の『アメリカ側から見た東京裁判史観の虚妄』(祥伝社新書)も並んでいる。
 前書については1年、後段の本については2年の熟成がされて、ようやくワシャの栄養になったというわけだ。
 どちらの本も、書店で「題名」の印象だけで購入したもので、パラパラと繰った後に棚に入れてあったのである。ネットで本人を拝見し、そしてあらためてその著書を手に取る。書棚に無ければ素通りで、あったからまた再会することができ、国際コミンテルンの行ってきた悪逆の数々を知ることができるのであった。

 本との出会いは、まことに大切で、その機会を持てることに喜びを感じている。