浅葱裏

「あさぎうら」と読む。歴史に詳しい人ならピンときたであろう。羽織の裏地によく使われた木綿布地の色で、薄い藍色というか、水色にも近い。江戸期に田舎から出てきた武士の羽織裏が、その手の色だったことから、吉原遊郭などで野暮な田舎侍をあざけって言った隠語であった。

「あの浅葱裏、ケチなくせにエッチでありんす~」

 なんて言っていたかも(笑)。

 

 ワシャの尊敬してやまない司馬遼太郎さんに対して「浅葱裏!」と一喝した女性がいた。京都の座敷であるご夫妻と、司馬さんが一杯やっているときの話である。その時のことは『司馬遼太郎が考えたこと』の11巻に収められている。少し引く。

《いつだったか、京都の座敷で飲んでいて、話が夫君やら私やらという大正うまれの人間についての論評になり、最後に、いわば愛情をこめた足蹴でもって、「浅葱裏!」と、一刀両断にされてしまったときばかりは、畳の上に笑いころげてしまった。吉原の大籬(おおまがき)の薄雲大夫かなんぞにやられたような贅沢な快感があった。》

 司馬さんは、「浅葱裏!」と言ってのけた女性を「浅葱裏」に引っ掛けて「吉原の大籬の薄雲大夫」と表現した。「籬」とは遊郭にある格子戸のことで、「大籬」は、それがでかいということで、吉原遊郭でもっとも格式の高い大店のことを言う。そこにいた「薄雲大夫」というのは人名辞典にも載ってくる遊女で、これがまた、話が逸れるが、すごい女傑だった。江戸前期の人で、吉原の大店の遊女だった。才色兼備で、和歌や書にも通じ、義を重んじ、女性ながら任侠を尊んだ。大身の武家が3000両で身請けをし、一室に閉じ込めて、己がものにしようと試みたが、浮雲、ついに肌を許さず、そのために武家は家臣に命じて、10本の指を1日1本ずつ切り取らせ、意を遂げようとしたが、それでも浮雲はクソ武家に体を許すことなく没してしまう。吉原遊女の心意気ここにありを示し、後世に名を残こした。

 

 そんな「傑女」に比された女性が、田辺聖子さんである。田辺さんは司馬さんにとても可愛がられ、田辺さんも司馬さんを尊敬していた。司馬さんが亡くなられて、すぐに編まれた『司馬遼太郎の世界』 にも追悼文を出されている。題は「浅葱裏――ある日の司馬サン」である。

 司馬さんが司馬さんの視点で田辺さんのことを書く。田辺さんは田辺さんで、自分から見た司馬さんを書き残している。おかげで残された我々は司馬さんや田辺さんの人となりが立体感をもって摑めるのである。

 

 京都の座敷で一緒に飲んだ司馬さん、福田みどりさん、カモカのおっちゃんに、ようやく田辺聖子さんが顔を出して、メンバーは揃った。はてさて彼岸では、また楽しい宴席が始まったに違いない。

 

 上の行で終わるつもりだった。ところが朝日新聞の社会面を見たら、田辺さんが市松人形を抱いて笑っている写真が掲載されていた。これをみた瞬間、ワシャは「こ、こ、これは!」と叫んでしまった。田辺さんが抱いている市松人形は、前述の司馬さんの文章の続きに出てくるのだ。司馬さんが田辺さんの家を訪ねたときの話である。

《この日、田辺家の長椅子にはすでに先客があった。つまり彼女の眷属の一人である市松人形の男の子がすわっていたのだが、逆上(あが)っている私はそれを尻に敷いて知らぬ顔でいた。彼女はやがて、大人の馬鹿っぽさがわかる十二、三の少女のような表情になって、「そのお尻の下―」と、小さな声で注意した。》

 無頓着な司馬遼太郎さんの照れたような表情が、写真で笑う田辺さんと市松の男の子の向こう側に見えるようだった。