一枚のモノクロ写真がある。寒冷地仕様の軍服に身をつつんだ丸メガネの若者が、軍刀を杖にしてすこし格好をつけて写っている。
これは司馬遼太郎の写真の中でもけっこう有名なものである。若き日の司馬青年の初々しさはいかばかりであろう。
この若者を神仏は生かしてくれた。この若者を仕事が済むまで天に召さなかったことを素直に感謝したい。司馬少尉が満洲のどこかで、ソビエト軍、支那軍と遭遇していれば、司馬さんの性格からして、命惜しみをするような人ではないので、おそらく先頭に立って、仲間のために戦死していただろうことは想像に難くない。
司馬青年は満洲牡丹江の戦車第一連隊に入営した。その時のことを司馬さん自身が回想している。
「新品の戦車の砲塔ですら、スパナで削るとボロボロと削れた」
そんなものはソビエト製の大型戦車に対峙して火縄銃ほどの効果すらない。日本兵はおもちゃに乗って大陸の原野を走りまわらされていた。先の大戦で、消耗品でしかなかった学徒兵の司馬さんが命永らえたのは奇跡と言っていい。
そのおかげで、日本人は膨大な「司馬遼太郎の歴史」「司馬遼太郎の思想」に触れることが許された。「司馬遼太郎の熱心なファン」であるワシャは、そのことに素直に感謝したい。
司馬さんは日本という国に『竜馬がゆく』『坂の上の雲』などはじめとする39もの長編小説、多数の短編小説、膨大な評論、エッセイ、コメントなどを残された。6段の書棚2つがそれだけで満タンになっている。これら司馬さんの残されたメッセージの意味を消化するのには長い年月がかかるだろう。おそらくワシャの寿命も尽きると思うが、それはそれでいい。また後世の人びとが吟味してくれるだろう。それほどまでに司馬思想は深い。とやかく言う人もいる。それもそれでいい。なにがなんでも司馬遼太郎ではないのだ。丸山眞男がいい、吉本隆明がいい、という選択もありだと思う。
しかし、ワシャは司馬遼太郎が理屈抜きでいい。司馬文学がなかったらワシャの人生はじつに味気ないものになっていた。丸山や吉本ではダメなのである。
日本人への膨大な応援歌を残して、風のように去っていった人、司馬遼太郎の20回目の菜の花忌が明日巡ってくる。