また2月12日が巡ってきた。この国を真髄から理解し、行く末を憂え続けた作家が彼岸に旅だって、もう11年が過ぎた。日本が司馬遼太郎を失った意味は大きい。
記憶が鮮明ではないが、「聞く耳を持たなかったあの変人小泉さんでも、司馬さんの意見なら聴き入れただろう」と評論家が言っていた。司馬さんが83歳の大翁として東大阪から目を光らせていれば、国政もここまで腐ることはなかったろう。
司馬遼太郎という作家を、吉川英治、山岡荘八、池波正太郎、山本周五郎、藤沢周平らと同列で論じてはいけない。佐高信が司馬遼太郎を腐して、藤沢周平を一所懸命に持ち上げてはいるが――もちろん藤沢文学のよさは万人が認めるところではあるけれども――それは佐高さんの目がないだけのことで、日本人に勇気と希望を与えたということでは、他の作家の追随を許さないのである。
司馬遼太郎の作品群は、日本人のバイブルだと思っている。もちろんこういう言い方は司馬さんの望むところではないだろう。「イデオロギーという色眼鏡で物を見てはいけない。イデオロギーでは人類を救えない。」と自身も言われているからね。
しかしこれだけ日本が混迷し、上も下もバカばかりになってきた昨今、司馬さんの思想傾向を脊髄にして日本そのものを建て直さなければならない時期に差しかかったのではないだろうか。
ワシャは、たった一人、司馬遼太郎に代わることのできる人物に心当たりがある。ただその人は司馬さんに比べて少々過激だ。その過激さがうまい具合に醸成されたとき、その人は次世代のオピニオン・リーダーになっていくと確信している。
その人が司馬さんのポジションに着くまで、ワシャはせいぜい遼書(バイブル)を片手に勉強して、布教活動に精を出さなければなるまいて。
「あなたは、司馬を、信じますか?」(←外人訛りで)
菜の花忌に決意と希望を申し上げました。