南吉先生

 東日本大震災から8年。このところテレビや新聞で取り上げてくれてはいる。だが、一般の国民の意識の中では風化が始まっていることは否めない。「忘れない」ことが2万2131人の犠牲者にできる唯一の鎮魂であろう。残されたものはあの未曽有の大災害を語り継ぐことで、次世代への警鐘を鳴らし続けなければならない。

 岩手、宮城、福島の復興は進みつつある。とはいえ劇的に進んだとは言い難い。しかし国は勝手に「復興期間」なるものを定めて、あと2年で「復興」を終わるんだとさ。ホント、国の役人なんて机上の空論ばかりで、なんて杓子定規はことよ。

 福島原発廃炉すら目途が立っていないじゃないか。それどころか、炉の中のデブリのひと欠けらも処理できずに、なにが「復興期間の終了」だ。

 

 昨日、70人ほどの講演会があった。知人に誘われて顔を出す。童話作家新美南吉の教え子、安城高等女学校で入学から卒業まで4年間、南吉先生の下で薫陶を受けた方、19回生の加藤千津子さん(93)の1時間にわたるお話を聴いた。

 実は、あまり期待してはいなかった。ご高齢であることもそうなのだが、そもそも普通の主婦だった方で、話すことを商売にしているわけではない。まぁ南吉の思い出話がいくつか聴ければいいや……くらいの気持ちで参加した。

 ところが、後援会は生半可なものではなかった。講演の最中にワシャを含めて聴衆は何度も涙ぐんでいたし、話し終えた時に会場は割れんばかりの拍手に包まれた。

 

 ワシャは後援会なるものによく顔を出す。直近では磯田道史さんの歴史の講演がおもしろかった。その前は、和装をして「歴史コメンテーター」を名乗る塾講師の講演だったが、これが中身のないスカスカなもので、口はペラペラと回転しているのだが、こちらの心になにも伝わってこない。空疎な時間を浪費してしまった。

 加藤さんの静かな噛みしめるようなお話をお聴きし、人を感動させるのは、話術のテクニックではなく、ましてや回転のいい口ではなく、話し手の心に根ざした思い深なのだと気付かされた。

 

 南吉の教え子の加藤さんは、訥々と小さな声で話をされる。でもね、聴衆のほうが耳をそばだてて集中しているから、そのくらいの声で充分に理解できるし、それがまた優しい味になっていた。

 語られるエピソードは80年の時を超えて、南吉の在りし日の姿を生き生きと甦らせた。加藤さんは、本当に15歳くらいの女学生にもどって、南吉先生の前に立って話をしているようだ。今、そこで南吉と女学生が会話をしていて、それを傍で立ち聞きしているような、そんな錯覚すら感じてしまう。

 こんな話をされた。南吉は生徒たちに詩の指導をしていた。そこで生徒たちの書いた詩を、南吉自らがガリ版印刷をして粗末なわら半紙で冊子をつくって配布した。おそらく南吉は彼女たちが卒業するまで続ける気だったろう。しかし、社会情勢がそれを許さなかった。戦争により物資が不足して、紙の支給がなくなり泣く泣く6号をもって廃刊となった。南吉の廃刊の弁が第6詩集の巻頭にある。

《さゝやかないとなみでしたが、二月に始めた詩集――詩集といふのも可笑しい位のものですが兎も角第二、第三と続いて遂に第6号まで来ました。だがもうこれで當分やめねばなりません。戦争のため我々が喜んで忍ばねばならない不自由の中に紙不足があるのです。それが遂に学校の中にもやってきた……》

 昭和15年の9月のことである。安城高等女学校にも戦争の影が忍び寄っていた。南吉のまわりで屈託のない笑顔を見せていた女学生たちも、その後、軍事教練や勤労動員に駆り立てられていく。そんな下らないことに時間を費やすより、南吉先生と交流し薫陶を受けていた方が彼女たちのとってどれほど役に立ったことだろう。この一点をとっても、ワシャは戦争が嫌いだし、先の戦争で、国民を戦火の中に引きずり出した政府、軍部の愚か者たちを許すことはできない。

 南吉先生の最後の教え子、加藤さんの講演は4月くらいからネット上で見られるらしいので、またその時はご連絡します。

 

 昨日、ちょっと触れた「信濃なる筑摩の川の細石(さざれし)も君しふみてば玉と拾はむ」の話。やはり8年前にここに書いていた。ちょっとした感動的なエピソードも添えられているので、そちらもお読み下さされ。

《君し踏みてば玉と拾はむ》

https://warusyawa.hateblo.jp/entry/20110514/1305406295