才能のある人はいいなぁ(羨)

 元旦の日記に童話作家新美南吉のことを書いた。そこで中学校の恩師たちが南吉の苦境を救うべく奔走したことにふれた。南吉の中学校時代の恩師である遠藤慎一、佐治克己らが南吉の才能を惜しみ、なんとか創作活動のできる環境を整えるために愛知県教育委員会に働きかけたのである。これが功を奏し、南吉は安城高等女学校の教師となった。この後、死ぬまでの5年間、南吉は後世に残る作品群を仕上げていく。

 後輩から新年メールが届いて、それに返事を書く。ちょっと気取って、ソクラテスの言葉を引こうと思った。それで久しぶりに『ソクラテスの弁明・クリトン』(岩波文庫)を読み返した。やっぱり古典はおもしろいッス。読みふけるというほどのボリュームはないが、文庫の解説にあった『ファイドン』も読みたくなって『世界の名著 プラトンⅠ』(中央公論社)にまで入り込んでいる。ここにも「ソクラテスの弁明」が収録されており、訳の違いなどを比較して読むとおもしろい。
 そのファイドンである。ファイドンはパイドンともいい、『世界の名著』では「パイドン」として載っている。そんなことはどうでもいい。そのファイドンというのは人の名前で、戦争捕虜としてアテナイに連行され奴隷として売りに出される。ソクラテスは、ファイドンが哲学的・思想的に才長けたものであるということを知り、奔走して奴隷から自由にしたものである。

 元日、あちこちと書店をうろついて購入した本の中に、広瀬和生『噺家のはなし』(小学館)があった。その中に立川志らくのこんなエピソードが挿んである。
志らく日大芸術学部落語研究会で、OBである高田文夫志らくに「おまえ、面白いから落語家になっちゃえ」と勧め、談志に紹介したところ、「高田の推薦なら間違いない」とすんなり入門が許されたという。》
 これはけっこう有名な話。

 なにを言いたいかというと、南吉にしろ、ファイドンにしろ、志らくにしろ、常に才能を磨いてきた材は、必ず他者から求められるということ。それは人ごみの中に紛れていても、その才能が際立っているということに他ならない。
では、才能の種を育て磨きこんでいく方法はなにか。それはたゆまぬ努力、継続した努力しかないのだろう。
ワシャは師匠から「凡人は得意な分野で一つぐらい努力し続けないとモノにはなりません」と言われ、以来、寸暇を惜しんで本を読み、辞書を引き、資料をあさって日々の瑣事を文字にするということを続けている。
日記を書きだして10年目に突入した。さあ今年も頑張りまっせ!