寓話

 先月、隣町の美術館で高村光太郎展をやっていたので覗いてきた。
 高村光太郎というと「智恵子抄」から詩人というイメージが強いが、彫刻家としても名高い。才能のある人というのは、美術にも文学にも才長けているんですな(羨)。今回の展覧会で楽しみにしていたのが、光太郎が大正14年に作った「鯰」だった。
 美術館に行く前に雑誌の『サライ』を買ったんですね。毎年12月号には特製カレンダーがついていてこれが楽しみ。昨年は蕪村の「夜色楼台図」や「釈迦三尊像」がよかった。今年はワシャの大好きな宗達の「風神雷神図屏風」とか北斎の「下野黒髪山きりふりの瀧」がついていた。その中に光太郎の「鯰」もあった。これがなかなか面白い。さっそく美術館に問い合わせてみると「鯰はある」とのことだったので、出かけたというようなわけだ。これについては、ワシャが下手なことを書くより本人に語ってもらおう。
《一匹の木彫の鯰がある。僅かに体をうねらせて尾を低く引いてゐる。鯰の姿勢の極微な釣合の一端さへ、其は作家の心を語るのである。黙って、ぢつとして、唯ぬらりと其処に横たはってゐるのである。》
 ちょいと強引だけど、光太郎と言えば「道程」が有名だ。あの「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る……」という詩ですよね。この中で光太郎は「父よ」と呼びかけているのだが、もちろんこれは父である光雲のことであり、道というのは父が作っていった彫刻の大道のことだろう。そして一人立ちをした光太郎も同じ道を歩んでいくわけだが、父が示した道とはいえ、父と自分は違っている。自分の道を進んでいく限り手探りで行くしかない。その決意を詩にしているわけだ。光太郎が道に迷う若者たちに人生の行き方を示した詩とも言える。
 同様に宮沢賢治にも若人たちに送っている詩がある。これはずばり「生徒諸君に寄せる」というもので、『宮沢賢治詩集』(岩波文庫)に載っている。教鞭をとった農学校の生徒に贈ったものだろう。内容は「颯爽たる諸君の未来圏から吹いてくる透明な風を感じて、更にあらたな正しい時代をつくれ……」というような、子供たちの旅立ちへのはなむけの言葉なのだろう。
 さて、ようやく表題の「寓話」である。以下が書きたくて、光太郎とか賢治の話をしていた。
「寓話」、これは童話作家新美南吉の詩である。長い詩なので全文は引けないが、この詩のラストがいい。
《君達も大きくなると 一人一人が旅をしなきやならない 旅人にならなきやならない》
 この詩はいい。埋もれてはいるがこれから成長していこうとする若者たちの心に響く一編だと思う。ワシャ的には、堅い光太郎、難しい賢治よりもいい。ぜひ機会があったら読んでみてくださいね。