新美南吉の本

 平凡社の別冊太陽シリーズに童話作家の『新美南吉』が加わった。
http://www.amazon.co.jp/dp/4582922104
税込みで2625円、26年4月以降だと、2700円になってしまうので、早めに買っておいたほうがいい(笑)。
 内容は、童話作家新美南吉の作品にスポットを当てたもので、ちょっとした南吉作品百科になっている。南吉が生まれ、育ち、死んだ、知多の半田はもちろんのこと、南吉が青春を過ごした三河安城にも注目し、安城時代の南吉についても、いろいろな角度からアプローチされていて、なかなか奥行きのある編集となっている。

 新美南吉(本名は渡辺正八)の人生について、少し触れたい。少しと言いながら、少し長いかも。
 大正2年、愛知県知多郡半田町に生まれる。父親の渡辺多蔵は畳職人だった。南吉が4歳の時に、母親が死ぬ。母の早世が、南吉作品に強い影を落とすことになる。
 母の死から1年2ヶ月。多蔵は早々と後妻を家に入れている。南吉、6歳、小学校にあがる前である。将来、童話作家になる人物であるから、人一倍感受性が強い。その上に神経質な子供でもあった。そんな幼子と、血のつながらぬ継母との生活が、楽しいことばかりというわけにもいくまい。
 8歳の夏、南吉を精神的に追い詰める事件があった。実母の母、つまり祖母との養子縁組が行なわれ、生家から出されてしまうのである。これに南吉は耐えられず、養家で泣き暮らす日々をおくった。一人、祖母の家に捨てられるわけである。この疎外感はいかばかりであろうか。結果、養家で一度も楽しむことなく、しばらくして南吉は生家に戻される。この件が、少年南吉の心に大きな傷をつけた。
 それでも南吉は優秀だった。とくに作文は後の片鱗が顕れていた。そんな子供であるから、当然のことながら中学校へ進学したかったが、多蔵の稼ぎでは、小学校を出て、すぐに働き始めてほしかった。勉強したい息子と、労働力として当てにしている父親、ここにも南吉の悲劇があった。
 多蔵は最後まで南吉の進学を拒んだが、教師たちの説得もあって、ようやくのこと半田中学校に入学することができた。中学でも南吉は優秀な生徒で、このころから童謡や小説を書き始めている。
 中学校を卒業し、東京に上京するまでの18年間を南吉は半田で過ごす。中学校には5年間通ったわけだが、貧乏な畳職人の家に生まれ、無理をして中学校に進んでいる。周囲の裕福な家庭の同級生との格差を感じ続けた南吉は、はたして幸せだったろうか。
 その後、上京して東京高等師範学校を受験するが病弱な体躯を理由に不合格とされる。その後、東京外語学校に入学をする。ここでも南吉は優秀な学生なのだが、在学中に喀血をし、結核と診断を下される。卒業間近にして再び喀血し、帰郷を余儀なくされる。
 もどればもどったで、相変わらず貧乏な親からは就職を迫られ、やむなく勤めた会社はひよこを育てる会社で、日々、ぴっぴっぴーよこちゃんを追い回し餌をやったり鶏舎の掃除をしたりするのが南吉の仕事であった。そんな仕事が創作者である南吉にうれしいわけがない。
その上、会社の社長はお節介な人物だった。「若い者に無駄使いをさせない」という方針で給料の半分を貯金にまわし、残りしか支給しなかった。本を読みたくてしかたがない南吉にとって、先々の金よりも、今、本を買う金が欲しかった。不本意な仕事、わずかな給料で、はたして南吉が幸せだったろうか。
 すでに南吉、25歳になっていた。どうだろう。ここまでの人生が南吉にとって本懐であっただろうか。ワシャは、文学の才能に恵まれた南吉にとっては、不本意な25年間だったと思わざるをえない。
 何を言いたいかというと、25歳までの南吉は不幸だったと言いたいのである。

 さて、南吉の人生は25歳で一変する。南吉の不遇を知って、恩師たちが奔走したのである。南吉は25歳にしてようやく自分の居所が定まった。半田から3里ほどの安城高等女学校に教員として職を得たのである。そのことを日記にこう記している。
「さて僕は女学校の先生です。何だかヌクヌクして歩いてゐる。この間まで感じてゐたあの運命的な素寒貧――あれはどうしたといふのだらう。かうあつさり人間は一つの運命から他の異なつた運命に住みかへられるものか」
 ほとばしるような南吉の喜びが伝わってくるではないか。
 南吉は、金銭的にも、社会的にも、そして女学生に囲まれた日常という環境的にも恵まれた生活を安城で送るのである。
 この奇跡の5年間に、南吉はありったけの力をふるい、創作活動に没頭する。そして命を削るようにして書いた作品を世にだし、30歳を前にして鬼籍に入った。南吉に最晩年の5年間がなければ、おそらく南吉の名は後世に残ることはなく、その結果、別冊太陽の『新美南吉』も発刊されなかっただろう。