一枚の櫛

 銭金に重きを置く資本主義に懸念を持っている識者は多い。名著『逝きし世の面影』の著者渡辺京二さんも強い懸念を抱いている。
《現代資本制は世界恐慌や飢えや失業によって、あるいは全体主義的反動や世界戦争によってわれわれを脅かしているのではない。それは人間を強迫的な商品中毒者に仕立てることによって、われわれを脅かしているのだ。》
《今日産出されつつある商品群は、すでに人間の生存上の必要・欲求をはるかに上廻るレベルに達している。既存の欲望がみたされた人間は、それ以上商品を呑みこもうとはせぬ。だから資本は消費者の欲望を、日々新たに開発せねばならぬのである。》
 渡辺さんは「強迫的商品依存」を「生活のゆたかさ」と同一視してはいけないと警鐘を鳴らす。
 これも渡辺さんからの受け売りなのだが、かつての日本人――といってもそう遠い話ではなく祖父母の代が適齢期だった頃――は、実に手軽に結婚をしていた。畳を敷いた家と、たがいに持ち寄る布団や衣装箱、鍋釜類、半ダースのお椀やお皿、大きな盥(たらい)があれば、見事な所帯ができあがった。そういうものである。ワシャの両親だって駅前の小さな家でそんな生活を始めた。まもなく玉のような赤ん坊が生まれて、後年、弾のように危険なヤツになる。そんなことはどうでもいいか。
 渡辺さんは言う。
《生活の質素さ簡素さこそ、人間に行動の自主性を確保する基礎である》
《金銭や物財を過剰に要求すれば、精神と行動の自由が失われる》
 引用ばかりになっているが、なにしろ現代社会は物財に塗れていなければ生きてゆかれない。
日本に資本主義はそぐわないのではないか、と思っている。銭金をありがたがる拝金主義は日本の精神を殺すのではないか、とも感じている。
 ワシャは、日本文化、伝統を心より愛してものである。古代よりたっている遺跡や社寺に畏敬の念を抱きつつ、平安の文学に風雅な知性を感じながら、鎌倉に醸成された武士の一所懸命に敬意を払っている。室町に発展した文化は今も日本人の文化の中に大いに影響を与え、江戸文化については、この時代の文化なくしては現在の日本は語れない。例えば囲碁ひとつとっても文化文政の興隆がなければ、今の世界的発展はなかったであろう。
 2日前だった。石坂浩二のBSの番組「極上!お宝サロン」に「櫛・笄(こうがい)」のコレクションが出てきた。鼈甲、鶴骨、貝、珊瑚などを加工した江戸の名品が並んだ。これがまたいい。派手ではないのだ。しっとりとして手が込んでいて使い勝手が良さそうである。
 明治維新後の西洋化で和服が廃れてしまった。それでも昭和40年代までは、中高年女性の和装が根強く残っていた。ワシャの祖母も和服を好んでいた。裁縫の先生だったということもあるけれど、生徒にも近所のおばさんたちにも着物姿が多かった記憶がある。祖母の日常は着物ばかりだった。だからアクセサリーの類は一切持っていなかった。祖母はけっして裕福ではなかったが、何枚かの櫛は化粧台の下の小引き出しに持っていた。黄楊(つげ)、柞(いす)の櫛にまじって鼈甲もあった。鼈甲の櫛だけが頭部を彩ることができた。それを祖母はよそ行きにしていたようだ。質素だけれど、でも豊かな精神を感じたものだ。
 ここで冒頭にもどる。現代人は強迫的な商品中毒者に仕立てあげられてはいないだろうか。あまりにもモノがあふれすぎていないか。それはソフトによらずハードによらず。われわれは中毒症状を起こしてはいないだろうか。