己の容器(うつわ)を見極めるというのは、はなはだ難しい。ワシャは自分自身のことがよくわからない。自らが何を成すべきか、何もしなくてもいいのか、客観的に自己の枠組がしっかりと規定・構築できていないから、途方にくれている。
「成すあろう」とはしてきた!
と、言いきってみると、「成すあろう」としていたけれど、それは「成そう」と妄想していただけのことではないか。フリとして「していた」だけで、真実「成す」努力をしていたのかはなはだ疑問だ……。
このところ、そんな思いがふっと湧いてくる。
思い起こせば、6年ほど前にもそんなことを日記に書いている。
《世に生を得るは事を成すにあり》
http://d.hatena.ne.jp/warusyawa/20111031/1320011424
司馬遼太郎が坂本竜馬の口を借りてこう言っている。
「生死などは取り立てて考えるほどのものではない。何をするかということだけだと思っている。世に生を得るは事を成すにあり、と自分は考えている」
若き坂本龍馬だから言える。おそらく羽生結弦くんや藤井聡太くんなら言えるだろうが、暦を一回りしようというオッサンにはもう言えないなぁ。
司馬さんは言う。
「たいていの技能は、いくら片手間の習得でも三十年もやっておれば、立派に専門家になる。(中略)要はサラリーマン個々が、人生に緊張感をもつかもたぬかで決まろう。毎月の月給を三百六十回ノンベンダラリと貰っただけで人生の活動期を終える人物なら、何とも申しようがないが、もし成すあろうとするならば三十年の歳月は、十分に人間を育てうる」
でもね司馬さん、そもそもの素材が違うから言うのもおこがましいし、集中力も桁違いだとは思うけれど、それでもあえて言えば、金メダルの羽生くんは23年、竜王に勝った藤井くんにいたっては15年しか生きていない。藤井くんはついこの間までおしめをしていたんだよ。「成すあろう」ではなく、あっという間に「成した」のである。
ワシャは30年間を緊張感をもって過ごしてきたことだけは自負している。手当たり次第とは言わないけれど、新しい物には余程のことがない限り挑戦してきた。「成すあろう」と生きてきたつもりではある。
しかし、現時点で何事も成していない。いやいや、悲観してそんなことを言っているのではないんですよ。わりと冷静に「そんなものか」と分析をしているのである。
永井荷風が言っている。
「日本人は三十の声を聞くと青春の時期が過ぎて了ったように云うけれども、熱情さえあれば人間は一生涯青春で居られる」
ワシャは「違うな」と思う。熱情などなくともワシャはいまだに青春だと思っている。
若者が「青雲の志」を立てても、その志が実現されなければ、青春から出られないだけである。ある種の「諦観」が青春の出口であり、「諦観」できなければ、青のまま夏、秋を過ぎ、冬にいたれば凍て始めるのではないか。
冒頭に「成す」努力をしていたのか?と疑問を持った。それに対して百田尚樹さんがこう結論を出している。
《本当の才能というのは実は努力する才能なのよ》
ううむ、そう言われると返す言葉がない(苦笑)。