日曜の朝から書庫の中で本と格闘をしている。
いやいや、大した話ではないんですよ。早朝、日記を書こうと思ったんですわ。新聞を読んでいて、例の如く朝日新聞の駄コラム、駄社説、お笑い「日曜に想う」などが相変わらずなので、これで書こうかとも考えたんですね。
スポーツ欄を見ていて「大相撲」がとても盛り上がっているので、「1敗徳勝龍の問題点」とかもモリモリ書けるので、そうしようかとも愚考した。
しかし、「このところ大相撲ネタが多いなぁ」と思案して、令和2年に入ってからの日記のネタを数えてみようと、阿呆なことに思い当たってしまったところに陥穽があった。
そうしたら、この10日ですでに2回も相撲ネタだった。まぁ朝日ネタは25日中8回も書いている。ワシャの日記は「がんばれ天声人語くん」かいな(笑)。本のネタが3回あり、国際情勢が5回、伝統芸能が2回、地元ネタが3回となっていた。ちょっと偏っている。「天声人語」を笑えない。
そんなことに思い当たり、大相撲ネタはひかえておこうと発意した。
では、別ネタでといっても、そうそう突然に閃かない。歳時記を見たり、年中行事辞典を開いたりして、しかしなかなか見つかるものではありません。
午前8時過ぎにはネタ探しに飽きてきて、今週の読書会の課題図書『梅原猛の授業 仏教』(朝日文庫)の拾い読みをし始めた。そこでピ~ン!ときたのだった。
76ページに「形而上」という言葉が出てくる。「これや!」。司馬遼太郎は「形而上」「形而下」という言葉を頻繁に使っている。ワシャも司馬作品の中で何回も出くわしている言葉なのだが、実際にその真意を酌んでいるかと言われれば、「ぼんやりと理解している」と答えざるを得ない。これをすっきりとしておこうと思い立ったんですね。
まず『梅原猛の授業 仏教』の中に出てきたフレーズで見てみよう。
《四諦(したい)の思想》
四諦の思想とは、苦諦(くたい)、集諦(じったい)、滅諦(めったい)、道諦(どうたい)のことで、面倒くさくなってしまうので、簡単に「諦めの思想」ってことにしておきましょう。
《四諦の思想というのは、ある意味で実践哲学です。それを形而上学というか、哲学化したのが十二因縁です。》
十二因縁は、十二縁起とも言い、これは釈迦が、人間の苦しみ・悩みがいかに成立するかを考察し、その因を人間の心の中にある十二の項目に求めたもの。それが、無明(むみょう)、行(ぎょう)、識(しき)、名色(みょうしき)、六処(ろくしょ)、触(そく)、受(じゅ)、愛(あい)、取(しゅ)、有(う)、生(しょう)、老死(ろうし)であり、この苦悩の根本を断つことで、苦悩を滅する・・・ということで、この十二の条件を系列化した仏教の基本的なものが「十二因縁」なんですが、だいたい、こうやって話を難しくするのは、そのことを理解していない証拠で、「四諦」とか「十二因縁」とか、小難しいことを並べて誤魔化そうとしているんですな(反省)。
ううむ、簡単に整理しよう。
「四諦の思想」というのは「実践哲学」であり、それを「形而上学、哲学化」したものが「十二縁起」で、これは「実践の思想」でもあるので、「思想」「哲学」「形而上学」がニアリーイコールと考えてもいい。
「形而上」の初出である『易経』に依れば、「形而上」とは「時間・空間を超越し、知覚でとらえることができないもの」であって、《目に見えぬ実在(形而上)が「道」、それが形となって表れた現象(形而下)が器である。》と言っている。
あるいは司馬さんのニュアンスでは「形而上」は「精神的」「抽象的」であり、「形而下」が「現実的」「具体的」ということなのかもしれない。
「形而上絵画」というものがあるが、これの説明で《形而上的といっても、特定の哲学的思想をあらわしたものではなく・・・》と書かれている。「形而上的」と「特定哲学的思想」が並列されている。「的」を取ったら「形而上」=「特定哲学思想」でいいじゃんね。
司馬遼太郎『空海の風景』(中央公論社)の上巻66ページに「形而上」という言葉が出てくる。
《筆者は空海がなぜ大学をとびだしたかについてなにごとかを知ろうとつとめている。かれの青春における変転を知るために、かりに、つまりは作業用の仮設として、かれにおける性の課題を考えようとしている。ひるがえって考えれば、人間における性の課題をかれほどに壮麗雄大な形而上的世界として構成し、かつそれだけでなくそれを思想の体系から造形美術としてふたたび地上におろし、しかもこんにちなおひとびとに戦慄的陶酔をあたえつづけている人物が他にいたであろうか。》
司馬さんが、空海という巨人を例にして、それも「性」というまことに根源的な営みを組み合わせて「壮麗雄大な形而上的世界」と表現してくれている。これで、なんとなく「形而上」が見えてきた、ような気がする。