洗脳はなかなかとけない

 今朝の朝日新聞「声」の欄の右上。
「平和繁栄は戦没者のお蔭か」と題した80歳の佐賀県男性から。その年齢(終戦時に7歳くらい)から推察すれば、戦争といっても子供の周辺で起きたことしか知らないだろう。多くは戦後に後付けで仕入れた知識ばかりで、それも偏向したものであれば染まるのにさしたる時間もかかるまい。
 男性は全国戦没者追悼式での首相式辞に憤る。まず首相式辞をご覧くだされ。
「いま、私たちが享受している平和と繁栄は、かけがえのない命を捧げられた皆様の尊い犠牲の上に築かれたものであります」
 この追悼の言葉に対して男性は、以前から大きな違和感を持ち続けていたという。
《今日の平和と繁栄のために死んでいくのだと、あの戦没者のどれだけが思っただろうか》
 男性の言うとおりで、戦場にいなかった人間には死にゆく兵士の思いを察することはできない。反対に、戦前の日本人が見たこともない現在の日本の繁栄を想像することは不可能であった。双方ともその場にいないのだからどうしようもない。
 ただ、兵士たちが戦場で敵とまみえるとき、銃後の人々の安寧や幸福を願わないわけがないよね。自分の命がなにと引き換えられるのか、自分の存在意義を考えないほうが不自然だと思う。
 男性は続ける。
《そこにあるのは深い反省と心からの追悼のみで、今日の繁栄や平和への希望などでは全くない。今日の我が国の平和と繁栄は、戦後72年、国民のたゆみない努力によるものとするのが真理だと思う。》
 出たー!「深い反省」。
 だからさ、反省をするのは大切だと思う。だけど、なにを間違って戦争に負けたのか、PDCAできっちりと分析をしなければいけない。一方的に「反省の深い沼」にはまりこんでいてはダメなのだ。今日の我が国の平和と繁栄が、先の戦争で欧米列強に対して命懸けで戦ってくれた兵士たちのお蔭であることは論をまたない。ドイツや朝鮮のようにならなかったのはひとえに英霊たちを含めたあの世代に活動した人々のお蔭である。
戦没者の命を「尊い犠牲」とあがめるのは戦争を美化することだ。無念のうちに死んだ人々へのむしろ侮蔑と言うべきであろう。》
 戦没者の命を「尊い犠牲」とすることに何の問題があろう。美化などはしていない。ただ亡くなった霊に対して尊崇の念をもっているだけだ。それが何ゆえに「侮蔑」になるのかが、まともな人、リアリストには判らない。
 この投書が右肩にあるということは朝日新聞もそう思っているということで、相変わらずお花畑なのである。

 昨日の朝日新聞の右肩投稿についても。
 小野寺防衛相が10日の衆院安保委員会で「日本は盾の役割、米側には打撃力をもって抑止力を高める役割がある」と答弁した。これに対して投稿者は驚いた。なにに驚いたかということをこう言っている。
《日本は「盾」なんですね。盾は何かを守る道具で、守る対象そのものではありません。》
 ワシャが驚いたわい。そもそもあんたが間違えている。日本が「盾」ではない。自衛隊が「盾」なのだ。小野寺大臣もそういった意味合いで言っているのだが、こうやって細かいところにからんでくるバカがいる。投稿者は中曽根首相が「不沈空母」と言ったことを引き合いに出して、こう続ける。
《日本が盾となり、空母となって守るのは、米軍と米国なのですか。》
 だから違うって。自衛隊が盾となって守るのは日本であり日本国民である。そしてこう締めている。
《米国が守ってくれるからなんとかなるという建前あるいは幻想は置いて、今は現実味を増す戦禍を防ぐ道を本気で探る時だと考えます。》
 この人、日米協調にこだわるのは危険で、北朝鮮との対話をしろと言っている。そのあたりの臭みから、この人も田嶋陽子系お花畑だな。
 アメリカと協調して他国の侵害に対応しないのなら、日本は独自の戦力を充実しなければなるまい。そして矛を持つことが大前提になる。
 投稿者を含めて日米安保反対の人は、9条があるから「アメリカと連携するな」と言っておけば、日本独自では先制攻撃ができない。このために敵に遭遇した場合も、まず敵が撃たなければ反撃できないから、とにかく自衛隊に被害が出る。こういった言動は利敵行為なのである。

 そしてそのお花畑思考が、現在の防人たちの命を軽んじていることに気がつかない。自衛隊を侮蔑していることにリアルに思いが馳せられない。かわいそうに。