コツコツネーチャン

 ワシャの家の裏は路地になっている。それが矩の手になって表通りまで続く。昔でいう一間道で、その細さのためにめったに車が入ってくることはない。年に何度か、GPSに誘導されたタクシーが果敢に突っ込んできて、くの字の頂点のところに、路地と民地に段差があるため、脱輪をしているくらい。裏路地なので人の通りも少ない。しかし、バス停への近道になっていることもあって、たまに人が通っていく。
 平日の朝のことである。
 ワシャが流星号で出かける10分前くらいに必ず聞こえてくる足音があった。ヒールの音をコツコツ鳴らしながら、西方向から来て、ワシャの家の門を過ぎ、門からブロック塀に沿って丁字路を左に曲がると路地に入りこむ。我家の裏手をコツコツ進み、矩の手を右に折れてコツコツは遠ざかっていく。
 朝の定時に必ず通るこの女性に気づいたのは母親だった。以来、コツコツさんとかコツコツネーチャンと呼ばれて、我家的には朝の時報のようになった。夜も7時前後に東から西へ抜けていくそうだ。夏は、午後7時ならまだ明るいが、秋も深まってくると日没が早い。コツコツネーチャンを意識し始めてから、街灯のない路地に面した勝手口の電燈を、コツコツという足音が通過するまで点けておくことにした。
 後姿を一度か二度、見たことがあるくらいで、顔など見たこともない。雰囲気としては20代後半くらいのOLさんといった感じかなぁ。
 そのコツコツ音が10月のある日から忽然と聞こえなくなった。翌日もその翌日も……。家族の中では「転勤になったべか」とか「結婚して転居したのではないか」とかの憶測が飛んだ。窓を閉めている日が多くなっているので、たまたま聞き逃していただけかもしれないが、どちらにしても、ワルシャワ家の家族の中からその話題は遠のいてゆき、半月もすると話題に上らなくなった。
 それがつい一週間ほど前の朝から復活した。コツコツが少し鈍い音になったが、確かにあの足の運びはコツコツネーチャンだった。靴を換えたな。ワシャは髭を剃りながら、ホッとしていた。