舛添氏限界

 昨日の産経1面に、相変わらず舛添東京都知事の記事が載っていた。見出しは「舛添氏視察 展覧会が突出」。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160522-00000052-san-soci
 もうボロボロだ。「公」と「私」が支離滅裂になっている。
 司馬遼太郎のエッセイに「公と私」について書かれたものがある。その中で厳しいことを言われる。
「公というものは現代の最高の価値基準であり、私にはしるものは腐肉以下といえる」
そもそも「公」のトップである知事などという職は、「私」が見えてはいけない。法律以前の問題である。そんなものが話題になっているだけで切腹ものと言っていい。
 記事にもどる。
《知事が今年4月までの1年間に、都内の美術館・博物館の視察を計39回にわたり繰り返していたことが21日、産経新聞の調べで分かった。》
 行政のトップが現場へ顔を出すことは、そりゃぁあるだろう。現場を見て、的確な判断をするトップ、それはそれで頼もしい。しかしトップが興味を持たなければならないものは、そこに展示してあるモノではなく、施設や、そのモノがどう都民に提供されているかのほうであろう。学芸員じゃないんだから(笑)。
《同じ美術館を何度も訪れていた。》
 明らかに「私」である。都内の施設視察が54回実施され、その内の7割2分が美術関係だった。「私臭」がぷんぷんする。その上、その日程を公表していなかった。「私」なのでやましかったのだろう。卑怯なやつと言っていい。
ビートたけしのTVタックル」だったか、どなたかが「猪瀬直樹さんや石原慎太郎さんより登庁する回数は多い」と弁護していた。けれど、都庁に出勤したその足で、趣味である美術鑑賞にのこのこと出かけていたわけだ。都民をバカにしている。
 それにしてもさ、大金を給与としてもらっている。自分の都合があれば、石原さんや猪瀬さんのように都庁に行かなくていい。美術館の入場料など多寡が知れている。私的な時間に自費で行けばいいものを、なぜわずかな金をケチるかなぁ。その吝嗇(けち)が破滅につながることをケチは気がつかない。
「タックル」で、ビートたけしも強く非難していた。田嶋陽子も敵だ(笑)。18日の謝罪会見のグダグダでほとんどの常識ある人を敵に回してしまった。ホントに自分にあまい。救いようがないなぁ。逃げに逃げて都知事を全うしたとしても、もう世間では通用しまい。以後、野々村元県議や上西小百合代議士と同列に扱われることは必然である。なぜ頭のいい舛添氏がそのことに気がつかなかったのだろう。それほど権力という発光体のエネルギーが強かったか、あるいは吝嗇だったか。
 谷沢永一さんが『人間通』(新潮選書)にこんな言葉を残している。
《男女を通じて絶対に矯正できない悪徳がある。それは吝嗇(けち)と臆病である。(中略)吝嗇(けち)は人間社会が助け合い尽くし合い凭れ合いであるという根本の事情を理解しない。》
 なるほど。
 カンニング竹山がいい提案をしている。
《選挙費用もったいない!舛添知事に「2年無償で働け」》
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160523-00000102-spnannex-ent
 確かに竹山さんのこの案が一番いいのかもしれない。都は無駄な選挙をしなくて済む。舛添氏は都民に無料奉仕することでなんとか面目を保つことができ、都知事を辞めてからの芽も多少は出てくる。吝嗇(けち)でもここは決断をしないと。