屈折の美学

 NHKのBSプレミアムに「美の壺」という教養番組がある。
http://www4.nhk.or.jp/tsubo/
 草刈正雄さんが案内役で、毎回、例えば「欄間」とか「かんざし」といったように、一つのテーマに焦点を当て鑑賞法のツボを解説する。これがなかなかおもしろい。4月は「伊万里から有田焼へ」、「技あざやかにはさみ」、「憧れの街、銀座」である。その都度、切り口が変化し視聴者を飽きさせない。
 昨日のテーマは「神秘の輝き ダイヤモンド」だった。比較的、和風の多い「美の壺」なのだが、今回は草刈さんがマハラジャの格好をして登場して意外な感じがした。ダイヤモンドなんてまったく縁も関心もなかったので「基礎知識だけでも知っておくか」程度でテレビの前に座った。それでも「ブリリアンカットの方法」だの「語源が、征服されざるもの」だの、興味深い知識が得られた。後半は、母、義母から託されたダイヤモンドを宝飾店で加工し直して装着する人の物語が「美談」として差しこまれていたが、そこは「ふ〜ん」てな感じでしたね。観終わって、やっぱりダイヤモンドには寸毫の興味もわかなかった。だが、ひとつ思い出した。司馬遼太郎さんが、宝石について書いた文章をである。陶器などと宝飾品を比較した小論をどこかで見た。気になったので、というか今日のネタになりそうなので、書庫にもぐって探しましたぞ。
(20分程経過)
 あった!比較的早く見つかってよかった。
司馬遼太郎が考えたこと』(新潮社)の4巻に「血はあらそえぬ陶器のはやり」というエッセイがあって、その中で、日本には玉や宝石を大事がる文化は育たなかったと言われる。西洋や支那の貴族は玉や宝石にこそ執着した。それに対し日本の大名などは、朝鮮雑器のめし茶碗などをことのほか愛でた。ときには茶碗一碗が封土にも換えられた。そんな比較論を展開している。
 たとえば、ここに10億円のブリリアンカッとのダイヤモンドと、喜左衛門の井戸茶碗
http://yansue.exblog.jp/17527664/
があったとしよう。ワシャは間違いなく喜左衛門が欲しい。おそらくこの茶碗、出自は朝鮮半島のどこかの野窯であろう。飯茶碗として焼かれたが、均整も悪いし、高台にカイラギ(小さい釉薬のかたまり)が付いていて、それほど上等なものではなかった。しかし日本に渡ると「国宝」になった。
 司馬さんは言う。
《茶碗をみつめているうちに心が吸いこまれてゆく。吸わせるような茶碗でなければいいものではないという。その物に心を託しきって惑溺しなければ美という大飛躍がうまれないというふしぎな屈折の美学を、日本人は玉や宝石を知らないがために知った。》
 世界では、ダイヤモンドなどの宝飾を選ぶのがスタンダードだろう。もちろん日本にも宝石をこよなく愛している人もいる。しかし、古代より日本人は宝石には音痴だったし、今もそれは続いている。司馬さんは、親しみをこめて「宝石音痴」と呼んだ。
 ワシャの浅慮では、大陸人が宝石類を好むのは、民族の迫害の歴史にも起因しているような気がする。要するに国を追われた時、軽量で身に着けられ、損壊もしにくい財産、それが国際的に通用する宝石だったり玉だったりしたのであろう。割れやすくかさばる茶碗など見向きもされなかったに違いない。