三ツ矢サイダー

 午前5時30分、今、三ツ矢フルーツサイダーを飲みながら日記を書いている。適度な炭酸がさわやかだ。
 昨日の日記で、ある講演会の前振りをした。それはクローズドの集まりだったので、その内容を書いていいものかどうか少し逡巡した。しかし、講演者自身がいろいろなところで発言をされていることであるし、内容の大切さからもメモっておくことにする。
 講演者は拉致被害者蓮池薫さんだった。『拉致と決断』(新潮社)などの著書があり、当然、ワシャも読んでいる。もちろんその本も持って会場に臨んだ。丸テーブルが30ほどあったが、ワシャはもっとも演台に近いフリーの席に座った。
 1978年に柏崎市の海岸でデート中を北朝鮮工作員に拉致された。奥戸さん(当時)と別々の袋に入れられて、顔面パンチを何発もくらったと言われていた。その恐怖たるやいかばかりであろうか。奥戸さんのほうは殴られなかったようで、抵抗の強い男の方を弱らせておけ、ということだったのだろう。そして鎮静剤やら睡眠薬を打たれて、気がつけば北朝鮮の東部の港町である清津(チョンジン)に着いたとのこと。
 ここでも、蓮池さんと奥戸さんは全く別々に隔離され、お互いに「相手はどこにいるんだ?」と聞くと「もう彼は(彼女は)日本に帰したから」と言われたそうである。再会するまで1年9カ月を要するのだが、なんの落ち度もない恋人同士に対するこの所業は、最低の国家と罵っても足りないし、それをしたり顔で指示していた国家指導者は憎んでも余りある。
 ただ別々の軟禁生活で、唯一の支えが「三ツ矢サイダー」だったそうだ。1978年当時、まだ新潟や日本海側の港から、清津に貨物船が入っていて、「三ツ矢サイダー」も輸入されていた。それが蓮池さんや奥戸さんの咽を潤したそうだ。遠い祖国のサイダーの清涼感とともに、わずかではあろうが心も慰めたに違いない。
 ミサイル発射以降、北朝鮮とのパイプは切れている。しかし、その間も絶望に苛まれながらも同朋たちは必死に北朝鮮で生きている。
「なんとしてでも全員を取り戻す。これには国民の世論の高まりが絶対に必要だ」と言われる。そのとおりだ。二代目は、途中から、日本国民の世論というものが気になって仕方がなくなっている。三代目も同様である。このことが重要だと蓮池さんは言われる。拉致問題を国民運動にまで高めていくことこそが、解決への最短コースなのである。